ウィキリークスとジャーナリズムの関係

2010年12月05日 19:00

12月4日にニコニコ生放送にて、「ウィキリークスとジャーナリズム ~正義か、犯罪か?~ 」が放送された。MIAUの八田真行が出るというので見ていたのだが、一晩寝て頭をすっきりさせると、「重信メイかわええ」以外のことに気がついてきたので、書いてみる。


これまでもネットというのは、リーク先として使われることは多かったわけだが、それの総本山的なところができてきて、いよいよ国家単位のリークが集まるようになったことから、様々な批判が集まってきた。当然、情報が盗まれたとされる国にとっては、脅威となり得る存在なので、つぶすために圧力をかけるだろうが、一度こういう方法に人類が気づいてしまった限り、一つをつぶしてもいたちごっこである。

ウィキリークスを擁護するのは主にジャーナリストで、特に大手メディア社員ではなくフリーランスであるあたりが興味深いところだ。しかしここで我々が考える必要があるのは、「知る権利」の解体なのではないかと思う。

過去リーク情報握っている人間がその情報を広く公開するためには、ジャーナリストの力を借りなければならなかった。つまり、国民の「知る権利」が具現化されるためには、ジャーナリストによる「知らせる権利」がイコールだったわけである。

しかしネットの登場によって、事情が変わってきた。情報を持つものが直接、ジャーナリストやメディアを通さずにリーク情報を広く知らしめることができるようになってきた。ウィキリークスも一つのメディアでありジャーナリズムの一部であるという見方もできるが、これはリークする側にとっては単に「身の安全が確保できる仕掛けを持っているネットソリューション」にしか過ぎない。これも存続の危機ということになれば、別のソリューションを探すだけのことである。

国民、というか情報を受ける側の人たちにとっては、知りたい情報はありがたく頂戴するが、知りたくない情報、例えば自国や自分個人にとって不都合な情報に対しては、知る権利を行使しない。米国の反応がいい例で、ウィキリークスが中国のリークを流していたときは絶賛し、自国のリークが流れたら大たたきする。大手メディアは自国民にウケる報道を行なうので、それを反映する。

人々の知る権利は、公平ではないわけだ。それでもウィキリークスをつぶしてはならないというロジックを成立させるためには、これは「知らせる権利」なのであると、分解して語った方が腑に落ちるのではないかと思った。ウィキリークスを擁護するジャーナリストの立場は、この知らせる権利を擁護しているように思える。

番組中でリーク内容の正誤を判断するのは誰か、というアンケートでは、「個人」という答えが最も多かった。だが個人というのは、自分の信じたいものを信じる、あるいはそうあったほうが面白いものを真実として受け止める傾向があり、訓練されたジャーナリストのように社会正義とのバランスの中で葛藤したりしない。個人に判断をゆだねるのは、結局は何も判断しないということとあまり変わらないように思える。

僕個人の考えでは、それらリークの裏を取る作業こそ、従来メディアの役割になっていくべきだと思う。もはや従来メディアは、第一報を伝えるという役割を終えようとしている。個人にはない予算と組織力を使って、じっくり腰を落ち着けた、裏がとれた解説を中心とする報道に切り替わっていくべき時代がきたのだろう。

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