ある少女の延命拒否

岡田 克敏

 死期の迫った人に対して「もうすぐ死んで楽になれますよ」と正直に言えるものではありません。建前を優先し「きっとよくなりますから頑張ってください」と心にもないことを言ってしまいます。また患者がその人にとってかけがえのない人の場合は「頑張ってください」というのは本心でしょうが、それが患者にとって幸せなこととは限りません。


 最近NHKで放送された二つの番組はこれらの問題に一石を投じるものです。ひとつは12月8日のクローズアップ現代「ある少女の選択~”延命”生と死のはざまで~」で、悲運に見舞われた一家の記録を通して切実な問題を投げかけています。

 心臓に重い疾患をもつ少女は8歳で心臓移植を受けますが、背骨が曲がり呼吸困難になって15歳のとき人工呼吸器をつけて声を失います。訪問医療によって、少女が望んだ両親との自宅生活が実現しますが、腎不全の発症によってその望みは絶たれます。人工透析は自宅では難しいからです。少女はここで人工透析をしないという決断をし、やがて18年の短い生涯を終えます。

 父親は本人の意思を大事にするという方針なのですが、ある時、透析という方法があるので「生きているときっといいこともあるんだよ」と少女の気持ちを翻そうと試みます。しかし少女は「もう十分がんばってきたし、自分の命は自分で決めたことだし。もうパパ、追いつめないで」と携帯電話を使った筆談で答えます。

 18歳という判断力のある年齢であることから、主治医は本人と両親だけで決定するのがよいと考えたこと、両親も本人の意思を尊重するという態度を変えなかったこともありますが、なによりも少女の覚悟と意志の強さが大きな理由でしょう。透析をすれば楽になることを知りながら、断るのはとても難しいことです。18歳とは思えない見事なもので、私ならできるかどうか・・・。「もう死ぬ」と周囲の反対を押し切って、自らチューブを引き抜いた作家の吉村昭氏が思い出されます。

 次は全く対照的な話で、認知症などの患者が胃ろう(胃瘻、経管栄養法)によって延命を続けている実態を明らかにした11月28日再放送のETV特集「食べられなくても生きられる~胃ろうの功と罪」です。胃ろうとは胃へ通じる管を腹部に設置し、栄養物を注入できるようにすることです。中心静脈に養分を送る方法に比べ胃ろうは扱いやすく長期の生存が可能とされています。

 諸外国に比べ、日本ではとくに急速に普及し、40万人に迫るとされ、65歳以上の胃ろう手術の対象者の72.3%は脳血管障害者と認知症で占められるとされています。日本はどうやら「胃ろう大国」らしいのです。

 胃ろうの普及に力を入れ、3000人に胃ろう手術をした鈴木裕医師はある病院の大部屋を訪ねたときをきっかけに、胃ろうに疑問を感じます。胃ろうをしている30人の高齢者の光景、声をかけても反応がなく、ただ生かされているだけのような姿を目にします。彼らのほとんどは自分が胃ろうの手術した患者で、消化器だけが動いている状態が患者にとっていいことなのか、という疑問を感じたといいます。

 しかしそのような場合、胃ろうを中止することは(元に戻すだけですが)人工呼吸器を外すことと同様、殺人罪に問われる危険があり、そのまま生かし続ける選択しかありません。医師で作家の久坂部羊氏の「 日本人の死に時―そんなに長生きしたいですか」には延命処置によって余分な苦しみを味わう例がいくつも紹介されています。

 さらに番組は日本老年医学界学術会議の模様を紹介します。そこでは日本だけ胃ろうが多く行われる問題に対して議論が交わされます。ある医師は胃ろうをしないという選択は訴訟の可能性が高くなると述べました。今の医療の現状でいちばん常識のことを選ぶのが訴えられずに済む、無難な選択になると。なにもしないということは刑法に触れるのではないかと考える医師も多くいました。

 277人の医師に「自分なら胃ろうをするか」という質問をした結果が紹介されましたが、「する」と答えたのは24.9%に過ぎず、多くの医師は自分なら望まない胃ろうを患者には実施しているという現状が明らかにされます。

 延命を拒否した少女と、本人の意思に関係なく生かされる高齢者達、ここには生命に対する考え方の違いが見られます。少女の場合、もっとも重要なのは生命の質(QOL)であり、物理的な時間の長さではありません。それに対して胃ろうによって生かされている高齢者達の場合は時間の長さが優先されているようです。

 しかし少女の場合のように本人の意思が優先されるケースは稀です。生命の質は本人の主観に基づくものであり、周囲の同意が得られにくいためでもあるでしょう。

 それに対して胃ろうの高齢者ように、物理的な時間の延長を優先するケースは主流をなしています。それは、時間という客観的なものであるためわかりやすいといった点もあるでしょうが、命は何よりも大切であり1分、1秒でも長く生きるべきだという固定した考えと、刑法に触れる可能性、訴訟される可能性を避けるための行動による結果だということができます。まあ保険制度や病院側の事情もあるでしょうけど。

 これには刑法も大きい役割を果たしているようです。胃ろうや人工呼吸器の扱いによっては殺人罪に問われる可能性があり、その威嚇は実に強力であるからです。刑法が現状を固定する役割を果たしていると思われます。そのために医療が不本意な方法を取らざるを得ないことは患者やその家族にとって大変不幸なことです。

 法の整備を求める声はずいぶん以前からありますが、実現に至りません。番組では、胃ろうによって6年間生かされている寝たきり患者が映し出されていましたが、本人の意思と関係なく何年もの延命が実現された今、より柔軟な対応を可能にするような法整備の必要性は強くなっていると思われます。

 またこれは医療費の膨張、医療の配分などにも大きく関わる問題です。簡単に答えの出ない複雑な問題ですが、いずれは誰もが直面する可能性があり、他人事と見過ごせることではありません。

コメント

  1. bobby2009 より:

    80歳になる私の母は、今年の10月、自らの意思で抗癌治療を中止して自宅に戻りました。

    母にとってのQOLとは、1日中テレビを見て、1日に何本かタバコを吸いながら、窓から野山を眺め、寝る前にウイスキーの晩酌をする毎日を続ける、単純な日々の繰り返しでした。入院を続ければ、元気な時間を数ヶ月余分に得られたかもしれませんが、晩酌や野山の景色は諦めなければなりません。どうせ死ぬのが確実なら、少しの延命より、自宅での自由を選択したのでした。

    母が退院を決意したのは抗癌治療の2クール目の終わりでした。一定の効果はあり、見た目はかなり元気になりました。しかし抗癌治療後も少しずつ増加を続ける癌が見つかり、今より効果的な治療法は見当たらず、完治はほぼ不可能となりました。そうなると、今度は退院のタイミングが難しくなります。このまま治療を続けると、いつかは日に日に様態が悪くなる日が訪れます。その時点で病院の退院を検討する事は、医者にとっても親族にとっても困難と言えます。故に、自分の両足で歩いて出てゆける時がベストだったようです。

    以来、母は痛みのケアだけを行いながら、自宅での生活を続けています。緩慢な死を体験している母の心情はどのようであろうかと想像するのですが、実際のところは本人しか分りません。私を含めて周りの人間にできる事は、ただ残された短い日々を、少しでも楽しいものにする努力を行う事だけです。

  2. kotodama137 より:

    法的整備だけでは不十分だと思います。
    日本の医療は、保険制度のなかで診断や治療が行われています。いわばお上が決めた社会制度の中の医療です。安楽死が保険制度に組み込まれない限り、家族や本人が望もうとも医師に安楽死を選ぶ選択はありえません。しかしながら早々に安楽死が保険制度に組み込まれる事はありえないと思います。
    そうなると自由診療になりますが、家族の経済負担は大きいと思います。
    一番いいと思われるの自由診療と保険治療を併用する混合診療による治療法です。医療格差や治療費が増えるなど問題がありますが、医師に選択の自由性を与えることが早期実現を可能にすると思います。

  3. twinklecomet より:

     先日米寿を迎えた父、胃瘻してから既に1年が経過しました。
    目を開けてぼ~っと見ることはするのですが、こちらからの声かけなどに反応はありませんから、コミュニケーションは取れずに、ここに書かれているような「生かされている」状態になっています。そんな父も、そして看病している母も、以前から胃瘻は嫌だという考えを持っていました。では、なぜ胃瘻になってしまったか。

     昨秋起こした誤嚥肺炎後、なかなか体調が戻らず、口から十分な食事が摂れず、徐々に体力が落ちていく状況になりました。
    その頃も喋ることはほとんどできませんでしたが、こちらの言うことは理解でき、うなずいたり、笑ったり、涙流したりできる状態でした。このままでは栄養失調になるということで、選択肢は中心静脈栄養か胃瘻、状態からすると胃瘻の方がいいだろう、との医師の判断、そして家族も同意し手術を受けました。すると、栄養が十分になったことで、日に日に体調が改善しました。顔色もよくなり、頬もふっくらしてきて、いろいろな反応も良くなり、その内に胃瘻でなく食べられる日が来るかも?という期待も出てきました。その頃は、母も、胃瘻も悪くないとの考えになっていました。でも・・・。
     今春、私の娘、つまり孫の大学進学が決まり、涙を流して喜んでくれたのですが、それから1ヶ月も経たない内に、脳梗塞を起こして意識不明の重体になりました。どうにか危機は抜けましたが、先に書いたような状態になり半年以上が経過しています。

  4. twinklecomet より:

     今考え直してみても、あの時胃瘻を拒否することができただろうか?となると、やはりそれはできなかったと思うのです。他の方法で同じように父は回復したか?孫の大学進学を喜ぶことができたか?それはわかりませんが、栄養補給を優先に考えると、胃瘻の選択しかなかったと思うのです。でも本来希望していなかったのに、まるでアリジゴクに落ちたかのように、胃瘻で生かされている道に入ってしまったように思うのです。胃瘻を受けている高齢者で、このようなケースは、結構多いのではないでしょうか?自分は嫌だという医師も、その道に入ってしまうのかもしれません。死を迎えるまでに法に関係してくることもあるとは思うのですが、法整備以前に、このアリジゴクのような状況でどうするのがいいのか?選択肢があるのか?私には全くわかりません。父の長寿を祝い、少しでも長く生きていて欲しいという気持ちの一方で、今の状態を父は喜んでいる訳はないよな、もう死なせてくれと言っているかもしれない、と思う毎日です。

    長文、失礼しました。

  5. courante1 より:

    ご意見をお寄せいただき、ありがとうございます。たいへん難しい問題で私も考えさせられました。
    ある医師の方から以下のような意見をいただきましたので紹介します。
    『年を取って食べられなければ生物としては役割を全うしたと思って、胃瘻も点滴もなくそのままにするというのも当然選択すべきことですが(実際「福祉大国」で名高いスウェーデンではそうしています。恐らく家族にしてみると「何もしなかった」という良心の呵責にあうのを恐れてつけてしまうのではないかと思います』
    bobby2009さんのご母堂はご自身が決定され、周囲の方々は「短い日々を、少しでも楽しいものにする」よう努力される、という形であり、私もできることならそうしたいと思っています。
    twinklecometさんの場合、回復の見込みがあっての胃瘻ですから、当然の選択であったろうと思います。しかしその後のご本人のことを考えると深刻な問題ですね。病態の変化に対応して選択肢を広げるには法の整備と共にこの問題に対するきれい事ではないコンセンサスを作ることが必要だと思いますが、マスコミにその気運はありません。