役人というもの 政策のあり方との関係 

小幡 績

役人が権限を欲しているというのは大きな誤解だ。役人とはむしろ権限を持つことを嫌がるのであり、役人から権限を奪うことが行政改革ではなく、役人に責任を持って権限を持たせるのがポイントなのだ。


役人とは、世間やメディアのイメージとは違って、権限を振り回したり、権限を獲得することを最優先にして仕事をしていたりする、ということはない。むしろ逆に、責任を負わされるのは嫌だから、なるべく不必要な権限は保持したくないのであり、実施が面倒な法令は嫌で、自由にやってもらいたいのだ。

だから、自由にやられたらほかの住民から苦情がくるようなことは起きてほしくなく、そういう場合に、何でも禁止してしまえ、と言うことになり、実施しやすいルールを作り、それに当てはめて、自分で判断、解釈して責任を追及されないように、ルールどおり運用していますと言えるような制度を望むのだ。

ここにこそ、官僚主導の最大の弊害が生じる。個別に実際に監督、検査して判断するべきことをしなくなり、最適な資源配分を実現するための社会システムデザイン、経済政策が実施されなくなるのだ。

これが役人は責任を取れない、ということの真の問題点である。

きちんと社会として望ましい形に地域や経済を持っていこうとするならば、その姿が実現できるように直接的に誘導する必要がある。その中では、個別に誰かが適不適を判断しないといけない。そこは争いになるから裁判か調停組織が必要となるし、そもそも監督、調査には手間隙と技術が必要だし、何より、責任を持って自分で判断する、というガッツが必要だ。

実は、これは日本の多くの大組織に掛けており、個人では能力もあり、大きなヴィジョンを語っている中間管理職が、実際の判断はすべて上にあげるということになり、ガッツのない上は、すべて下に個別の判断は任せてあると逃げ腰である。

これが日本総無責任体制の根本的な理由である。

これを変えるためには些細なことであるが、個別事象は個別に判断しなければならない、すべて文書上のルールで決めることはできない、ルールはその実施がもっとも重要でコストもかかる、と言う風に社会の認識を変化させる必要がある。