エジプトやチュニジア、そして今ではリビアでも起こりつつある民主化の動きの背景に、Facebookを中心としたソーシャルメディアが反政府組織のための文字通りのソーシャルネットワークとして活用されている、というのはいまや社会的な常識として語られるようになっています。
先日放映されたNHKスペシャルを見ましたが、学生を中心とした革命組織が、Facebookを駆使してデモを企画し、民衆を招集するさまが臨場感溢れる映像で紹介されていました。(関係ありませんが、ハッカー集団アノニマスがエジプトのネット遮断策を抗議して一斉攻撃するのですが、彼らがかぶっている仮面が象徴的です)
実際のところ、デモに集まる群衆のほとんどはFacebookを見て集まったわけではなく、各地域にいる革命組織のリーダー的存在や、その仲間たちの一部がFacebookを通じてつながっていたにすぎないとは思います。しかし、そうした虐げられた知識層や若者たちが立ち上がり、国民全体を巻き込んでいくために必要なある程度の人数(ティッピングポイントに至るだけの人数)を集めるのに、Facebookは確かに役に立ったと言えるでしょう。
だから、日本で現在300万人以上と言われるFacebookユーザーの数が多いかどうかを論じることにも意味はなく、目的意識と先取精神を強く持つ現時点のFacebookユーザーに対して何らかの情報を差し出すことは、やがて大きなムーブメントにつながるはずであることを疑う必要はないのです。
とはいえ、ソーシャルメディアにできることは新しいアイデアや知識を生み出すことではなく、誰かが考えついたアイデアや知識を伝搬させることです。
Facebookが革命を起こしたのではなく、「語るべき何か」を持った革命の強い意志を持つ若者たちの手助けをしたに過ぎません。ソーシャルメディアには組織を生成する力もなく、単に組織行動をとれる数多くの革命組織の作戦行動をアシストしたツールに過ぎないのです。だからといってFacebookを始めとするソーシャルメディアの価値や意味を軽く見るのではなく、「語るべき何か」を持っている若者のための真の味方である、それがなければ単なるおしゃべりの場にすぎない、ということを正しく理解するべき、といいたいのです。
日本は現在、かなりクリティカルな状況に陥っている、と僕は思います。学生と話す機会も多いのですが、彼らの教養不足は目に余ります。政治的なデジタルネイティブ、と持ち上げるのもいいのですが、肝心の「語るべき何か」については貧弱な場合が多い。インターネットを使いこなせるのはいいのですが、インターネットの基本的な構造や歴史について知っている若者は本当に少ない。それどころか、(本来であれば十代や二十代のうちに読んでおくべき重要な文学に関する)文学的知識や宗教や現代政治に関する情報を理解している者も少ない、と感じます。
僕は二十代半ばのときに、初めてアジア圏に出張したときに、たまたまバーで知り合った同年齢の中国人の若者から「なぜ日本人は中国に侵略したのか」といきなり問われて困惑したことがあります。また、海外に長く住めば分かることですが、世界のほとんどの国では宗教的知識は必要です。アジア諸国では仏教やイスラム、欧米ではキリスト教やギリシア文学の知識があるとないとでは、ビジネスの場の会話についていけるかどうかに大きな差がでます。
映画「ソーシャル・ネットワーク」の中で、マーク・ザッカーバーグは、友人のエドゥアルト・サヴェリンのメールアドレスがジャバウォック(Jabberwocky)であることを聞いて、「ルイス・キャロルの引用かよ(笑)」と皮肉ります。このやりとりの意図を理解したデジタルネイティブがどれだけいたのか、と僕は気になります。映画の登場人物は皆 当時十代の設定です。しかもマークはコンピューターオタク、という設定なわけですが、それでも最高学府のエリートとしての教養を当たり前のように身につけている。
つまり、大してソーシャル(社交的)でもない一人の若者が作り上げたソーシャルメディアであるFacebookですが、知識という面では深い教養と、それを共有できるユーザー層(当初Facebookはエリート大学向け専用SNS)に向けて作られたシステムである、ということに意味があるのです。
ソーシャルメディアやスマートフォンなどが普及し、それを使いこなす若者が多く出始めたことは非常に意味があります。
しかし、忘れてはならないのは、それは世界中のどの国でも同じということです。
エジプトやチュニジアでは強い意志と教養を持った若者たちがソーシャルメディアやモバイルを駆使して革命を成し遂げました。米国では時価総額数兆円もの巨大ベンチャーがいくつも立ち上がり始めました。韓国は日本の半分の人口ですが、兵役義務で鍛えた精神と肉体を持ち、国内だけでは成長し得ない市場の小ささを逆手に取って、いまや戦略的に世界に打って出る作戦を国家レベルでとり始めています。
日本ではどうでしょう?
日本では革命を起こす必要はありません。民主党政権は醜い政治的混乱状況にありますが、幸運にも日本の若者は純粋に経済的成功を目指してベンチャーを興すことにエネルギーを使っていいのです。草食だとか、ゆとり教育なんてクソ食らえと中指をたてる若者がもっとでてくるべきなんです。もっと勉強して、この世の中のさまざまな理屈や仕組み、歴史をもっと理解するべきなんです。その力があってこそ、ソーシャルメディアを中心とした新しいテクノロジーや、それが生み出す新しいパラダイムを味方につけることができます。
今年の4月から、僕が経営するモディファイでも初めて新卒社員が3名入ってきます。モディファイはテクノロジードリブンの会社ですから、インターネットがどのような仕組みで動き、どのように世界を変えていくかを、僕が知りうる限りの情報をもって教えていきたい。さらに、世界はクチコミで動いているのではなく、「語るべき何か」を持った強い人間の意志で動いているということを、丁寧に伝えたい。そう思います。
そのうえで評論家になるのではなく、行動者であれと訴えたい。
「語るべき何か」を持っていても口に出さねば伝えられない。「語るべき何か」を口にしても、自分がそのために行動しなければ何も生み出せない。
無鉄砲で野心溢れる若い世代を多く集めるためにも、僕は今一度口うるさい大人になろうと思います。口であり、耳であり、指であろう。そう思います。
(小川浩 modiphi.com)
コメント
全くその通りだと思います。よくおっしゃって下さいました。現代を生きる我々はネットという強力な道具を手に入れ、その道具は日々進化しています。しかし、それはあくまで道具に過ぎず、それを使いこなす人達の成長が待たれています。
日本には名門進学校はあってもアメリカにあるようなエリート養成校はない。
マーク・ザッカバーグが行った Phillips Exeter Academy は、エリート養成校の一つ。
そこでは討論(ディベート)を重視した多元論的歴史教育が行われ、教養教育(文学、芸術など)が重視され、同時に、社会奉仕活動(Community Services)も必須だ。
有色人種の割合が45%、生徒の国籍数は37に及び、世帯年収が75,000ドル以下は、授業料は全額免除。実際、全額あるいは一部免除の生徒割合は46%に達する。
レガシー入学もあれば(12%)、アファーマティブ・アクションの入学もある。人種、宗教、社会経済的な階層、といったレンズから多種多層な生徒群を創っている。生徒を、そういう環境に置くことにより、エリートのありかたを考えさせる。
49と51の平均は50だが、99と1の平均も50。OECDの算数、科学の平均点数では、日本のほうがアメリカよりはるかに上、なんて言っていると、アメリカの底力を過小評価する。
Phillips Exeter Academyは、あくまで一つの事例で、日本で、そのままコピー出来るものではないであろう。が、日本では偏差値がどうの、という陳腐な議論が多い。真のエリート教育のありかたについて、もっと議論があっていい。
元日本人
口を出すのなら、金も出すべきですね。金を出さない爺やおっさんは若者に口を出す権利はない。
それこそ「そのうえで評論家になるのではなく、行動者であれと訴えたい。」これじゃないですか。 評論家爺・オヤジの言う事なんて無視して、若者は好きにやれば良い。金を出してくれる出資者には一応配慮しなきゃいけまんせんけどね。彼にも利益を享受して貰い、更なる投資をして貰わなきゃいけない。ザッカーバーグだって、そうしてきたでしょう。金も出さず、くだらない説教だけする爺やオヤジなんて完全無視ですよね。
とろんサン、
それはどうでしょうか?
必死になって勉強し、仕事をし、金(外貨を含め)を稼いで、法人税や、個人の所得税を払い、投資をして雇用を生み出し、国のインフラを作ってきた人達がいることをお忘れなく。
その人達の多くは、今は爺であり、オヤジであり、評論家じみたことも言っているかもしれませんが、若い時は激しく戦ってきたのです。誰も頼りに出来ず、ネットという強力な武器も持たず、それでも誰のせいにもせず、黙々とやってきたのです。
尤も、日本の政治や企業文化の革新には大した貢献はしてこれなかったのですから、その人達もあまり胸を張れたものではありませんが・・・。
「日本ではどうでしょう?」までの論は立派だと思います。でもその後、何故、アゴラではほぼ全ての論者が啓蒙主義的な主張で論を閉じるのでしょうか。
右派、左派、ビジネス、みなまるで神経症のように「社会を良くするために行動せよ」という情熱に冒されている。私は冷笑主義や相対主義でこれを指摘しているのではありません。
池田信夫氏の以前のエントリーで「啓蒙主義は別に良いものではないが他のものよりはましであり、他に選択肢がない(意訳)」という主張がありました。私には本当にそうとは思えないのです。
小田和正の曲に「The Flag」というものがあります。”そしていつの日か この国のすべてを 僕らがこの手で 変えていくんだったよね”とあり、”僕らが この手で 全てを…”とフェードアウトして小さい間奏、そして次の節へ。
私には、この曲のリフレイン+フェードアウトのような悲しさ・暗さが、啓蒙主義にべっとりと付着しているように思えてなりません。「社会を良くしたい」という熱病以前の「檄文」の乾いた明るさが、またこの時代に戻ってくればと願うものです。故に冷笑主義や相対主義で「評論家ぶっている」のではない。
最近の大河ドラマは、啓蒙主義で歴史の事象を塗り替えたようなものが多い。戦国BASARAなんかもそうでしょうね。私は藤田まことのような、乾いた明るさで現実を灯してほしいと思います。その灯火は既に灯されていますが、なかなか文章になりません。