やはり「日本人はすばらしい」―池田先生への反論

2011年03月17日 10:05

池田先生は「日本人はすばらしい?」と題するブログ記事で「地震の規模に比べて被害が小さく、人々が整然と行動したことを海外のメディアが『日本人はすばらしい』と賞賛し、それを日本人が引用するのが目立ちます。同様の話は阪神大震災のときも見られ、ある種のステレオタイプでしょう。」と風刺されました。


何処の国の人間でも、己の言動が国境を越えた感動を呼び、称賛を受ければ、其れを誇りに思うのは当たり前です。池田先生独特の風刺だとしても、他国に称賛されて喜ぶのがステレオタイプだと皮肉に解釈するのは、余りに素直さに欠け賛同できません。

知的レベルの向上も大切ですが、他人からの賞賛を誇りに思う素直な人間性は、競争過多に走り勝ちな近代社会では特に大切な様に思います。

惨事の際に日本人が示した冷静沈着な行動や、自己の利益を後回しにしても弱者に手を差し伸べる国民は、世界広しと言えども稀有の部類で、各国の称賛を集めるのは当然です。

世界の大災害に必ず起きる「略奪と無法状態」が日本ではなぜ起きないのか?と言う問いかけに、CNNの世界各国の視聴者から「敬意と品格に基づく文化だから」「愛国的な誇り」等々の感嘆の声が寄せられたそうです。

池田先生は、海外メデイアの称賛を引用するのがステレオタイプだと皮肉られますが、政治、経済、哲学の分野での日本の学者の海外権威者の引用の多さから比べれば、少ないように思えます。

一方、日本人は「悪法も法なり」と考る傾向が強く、上からの秩序に盲従し勝ちな欠点を持っています。この点「非常時に政府を批判するのは不謹慎だ」とか「福島原発に関する報道協定を結べ」という佐藤優氏の主張は、池田先生が問題視されたように、危険思想に近い憂慮すべき主張です。

日本人は財政危機とか官僚制度の弊害のような、目に見えない概念的な「敵」の存在を見抜けない弱点がある事も、池田先生のご指摘通りだと思いますが、日本国民が惨事に際して、公権力の介入もなく自主的に整然と行動した事が「画一主義」で「かつては戦争の道につながった」と言う御主張には、些か無理があるように思えます。

天災に対応した日本人の行動は世界の感動を呼びましたが、人災に近い原発問題の処理になりますと、感動どころか怒りと軽蔑を呼び、原発事故王国のロシアからまで批判される体たらくです。

日本人を称賛する記事は溢れましたが、日本の行政を称える記事は目を皿の様にしても見つかりません。事ほど左様に、「学生一流、教授三流」と揶揄されたどこかの大学のように、日本は「国民一流、行政三流」国家です。

私が誇るのは「惨事に際しての日本人の行動」であって、同じ様な危機を何度繰り返しても、危機管理の学習が出来ない官僚が取り仕切る日本国を誇りにしている訳では有りません。

先に私が投稿した「日本讃歌」に対して、ある方から「あなたの論調は,ただの驕りと妄信による言説と何ら異ならない.国難に遭遇した時に,民族の至高性や優秀さを賞賛することはかのナチズムと何ら異ならない。人為的に『基準を充たすもの/そうでないもの』という切断線を引くこと,すなわち差別化することに他ならない」と言う趣旨の批判と言うより非難を受けました。

これでは、入学試験は勿論、全ての資格試験は「基準を満たすか否か」で「切断線」を引く典型で、これもナチスの手法と言う事になります。

それだけではありません。この方の主張では、国別の組織である国連やオリンピックは勿論、全ての団体競技、企業間競争、経済、社会の比較統計など殆どすべてが「人為的基準」を充たすか否かによる差別化で、ナチズムと何ら変らない事になって仕舞います。

「基準の決定プロセス」や「基準の正当性」を巡る正当性は大いに論議すべきですが、基準そのものを「人為的差別」と決め付ければ、分類も選択を出来なくなる誠にナンセンスな論議です。

今回の惨事で日本人が取った整然たる行動は、公権力の命令ではなく、日本人が自らの道徳律に従った自主的行動で、これを誇りに思う事が何故ナチスなのか?私には到底理解できません。
(北村隆司)

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