9・11のあと飛行機に乗る人が激減し、人々は自動車など他の交通手段を利用した。その結果、死者は減っただろうか? 残念ながら2001年の9月以降の1年間に、アメリカで飛行機の代わりに自動車を使った人は1595人死亡した。同じ距離を移動する交通手段としては、飛行機がもっとも安全であり、自動車がもっとも危険だが、人は一挙に多くの人が死ぬ事故でリスクを評価する。
このようなバイアスが、もっとも愚かな政策を生んだのが、本書のテーマである「テロのとの戦い」である。イラク・アフガン戦争では軍民あわせて10万人近い死者が出たが、テロの犠牲者は全世界で年間300人前後で変わらない。これは1年間にプールで溺死するアメリカ人の数より少ない。平均的なアメリカ人がテロで死ぬ確率は1/10000以下だが、これは落雷で死ぬのと同じぐらいの確率である。
この「テロ」を「原発」と置き換えてみよう。日本で原子力施設の放射能で死亡した事故は50年間で2人だから、1年間に0.04人が死んだことになる。これに対して落雷による死者は年間20人だから、あなたが原発で死ぬリスクを恐れているとすれば、落雷で死ぬリスクをその500倍恐れたほうがいい。
しかしアンケートを取ると、アメリカ人の44%がテロの犠牲になることを恐れている。日本人は今、ほとんどの人が放射能を恐れているだろう。このようなバイアスには明らかな法則性があり、その原因は進化心理学でよくわかっている。人間の脳は旧石器時代から進化しておらず、人々は感情で動くからだ。
あなたの脳の中には、旧石器時代から変わらない反射的な感情(古い脳)と、新しい知識を学習して論理的に思考する理性(新しい脳)が同居しており、まず行動を決めるのは感情である。特に強い感情は、恐怖である。これは命を守るためのメカニズムなので、理性を超えて反射的に作動する。だから「放射能がくる」などとわずかな恐怖に訴えることが、メディアが売るための常套手段である。
古い脳のもう一つの特徴は、変化率に反応することだ。これは進化の戦略としては合理的である。外界から入ってくる情報は膨大なので、それをすべて処理することはできない。画像圧縮と同じように計算を省略し、変化する部分だけを認識して動く相手から逃げるのだ。このため人々は、ありふれた大きなリスクより新しい小さなリスクに強く反応する。
しかし統計的にみると、人類は歴史上もっとも安全な世界に住んでいる。1900年にアメリカで生まれた子供の20%が5歳までに死んだが、その比率は今では0.8%である。日本の平均寿命は1900年には44歳だったが、今は82歳である。「癌の死亡率が上がった」と騒ぐ人がいるが、それは他の病気で死ぬことが減ったからだ。客観的リスクを評価するには、変化する「事件」に過剰反応するバイアスを自覚し、新しい脳を使って数字を見ることが大切である。
コメント
ガンで死ねることの幸せ、というのはいつも感じてます。ガンにならなきゃ死なない豊かな社会に感謝しなくちゃ。
しかしそのガンの確率をわずか0.1%上昇するリスクが我慢できないってどういうことなんですかねぇ。昨夜もうら若き女子が無灯火で自転車こいでたけど、老人が放射能を恐れるよりも、あのほうがずっと社会的損失は大きい。
リスクを定量化すると「あなたには人の気持がわからない」、もう勘弁してって感じですよ。
放射能による癌との因果関係の立証が未だに難しい不確実性と原発利権の恩賞を一番うけてない人が一番の被害を被るって事をわかって上で、その対応も踏まえて最終的には投票で決めるしかない。死で比べても安心は手にはいらない。
> もっとも愚かな政策を生んだのが、本書のテーマである「テロのとの戦い」である。
「テロのとの戦い」は、ブッシュの支持率回復狙いの再選戦略です。その意味では再選を果たしたブッシュは見事に成功しています。
ここでは、ブッシュは人々や国家に大損をさせながらも、自分だけは再選という利益を得ています。国家的には愚かであっても、彼個人としては成功しているので賢明です。
(換言すれば、一人が利益を最大化することで全体の利益を最小化しており、合成の誤謬状態です。)
この問題は、人々がもともと愚かであるというよりは、政府によるプロパガンダで国民を洗脳したという意味があります。ヒトラーの洗脳戦略と同じです。
したがって、「人々は愚かだ、この馬鹿者め」と非難するよりは、「あなたは政府にだまされていますよ、さまされないようにしましょう」と洗脳を解除することの方が妥当です。
> 「恐怖」を操る論理
この本のタイトルは妥当です。人々が愚かなのではない。人々を愚かにするように「恐怖を操る」何者かがいるわけです。
私も原発は安全だとは思うのですが・・・
例えば日本の原発50個くらいが今全て福島原発みたいに放射性物質をばらまいたとします。すると風評被害だけで日本終了です。つまり日本終了の 1/50 くらいは起きているような気がします。
これは人体に例えると脳の血管の僅かな細胞が壊れて脳溢血が起きれば、それだけで死ぬようなものです。壊れた細胞の数と死は比例するわけではありません。
風評被害は本当に恐ろしいと思います。
一時ブームになった自己啓発にも同じ匂いを感じます。兎に角先ず、不安を煽って次いで不安解消の薬として中身のない本を売りつけたり、怪しげな有料セミナーに誘導する。不安を飯のタネにしている人間が多いのでしょう。マスコミなんかも多かれ少なかれその種類では?
山口 巌
>日本の平均寿命は1900年には44歳だったが、今は82歳である。
経済成長とか医療技術の進歩とかもあるんでしょうが、アメリカは一人
当たりGDPで日本よりも上だけれども、平均寿命は78歳で日本より下。
米国は、1人当たりの所得ではキューバの7倍の水準となっているが、
平均寿命は77.9歳とキューバの77.7歳とほぼ同等である。
http://www2.ttcn.ne.jp/honkawa/1620.html
小さい政府も外資導入も反対ではないが、米国のこういう欠点を見ていると、
自分も国民感情として森永卓郎などの社民論者を支持したくもなる。
それからいくらアジアの経済成長が著しくとも、治安の悪い物騒な国は嫌。
近代文明国家として社会保障はしっかりやるという姿勢は崩さないでもらいたい。
「不安産業の隆盛」
「不確実性の感情的拒絶」
「感情的判断を超えられぬ理性的判断」
「癌を告知され、余命に絶望して自殺する・・・」
そんな不合理が世の中には溢れています。
確かにそういうものなのでしょうが、それ故に「理性的判断」や「合理的判断」を発信する事は重要ですね。
> リスクにあなたは騙される―「恐怖」を操る論理
まともな本ならこのようなサブタイトルは付けないだろうとおもいまして、 原本の表紙と要約をWebで調べてみました。 予想どおり、 原文はもうすこし客観的で穏やかな表現をしています。
つまり, このサブタイトルこそが、 心配や恐れることが論理的思考を狂わせることを利用した「メディアが売るための常套手段」を使っています。
”Fear”は「恐怖」より軽いとおもいます。 「恐怖」となると”Horror”です。
池田さんの記事をいつも読んでいますが、人間への愛とか感情が感じられませんね。
「日本で原子力施設の放射能で死亡した事故は50年間で2人だから、1年間に0.04人が死んだことになる。これに対して落雷による死者は年間20人だから、あなたが原発で死ぬリスクを恐れているとすれば、落雷で死ぬリスクをその500倍恐れたほうがいい。」
私は福島県民ですが、落雷は自分の意志で回避できますが、放射線は回避できないでないですよ。
主張は自由ですが、確率論で人間が幸せになれますか。
ぜひ、リスクだけでなく人間の幸福感も得意の理論で説明して欲しいと思います。よろしく。
いつも池田氏の持ち出される原子炉の死亡率は・・・噺ですが、そもそもその50年で2人という前提にすら疑問が出ているということをもう少し考えるべきじゃないでしょうか?
放射線の人体への影響はまだまだ研究途上で、実際どれくらいに影響があるのか/ないのかというのは算定しづらいものです。
だからこそ、今回の小児専門家でも意見が割れて、御用学者なんていう言葉が横行する原因にもなっているでしょうし、大衆が漠然とした不安の拭い去れない理由にもなっているでしょう。
2次情報ではありますが、一方ではこんな分析もあるようです。
http://alcyone.seesaa.net/article/160020866.html
これは減少率だけで実数ではありませんが、こういう乳幼児絵の影響や晩発性の影響、さらには亡くならないまでもさまざまな形で健康被害を受けた人も勘案すると池田氏の分析は構図の単純化が過ぎるんじゃないでしょうか?
また、上でヒデさんも触れていますが、池田氏の分析というか文章には常に人の気持ちというものが無視されているように思います。
経済学は観念だけでなくて実際の人間が動かしているものです。そういう意味では感情が勘案できない現在の経済学は本質的に学問としての欠陥をまだまだ内包しています。
それを金科玉条のように経済理論ばかりを振り回すのは包丁使いはうまくても料理自体はからきし下手なコックと同じではないでしょうか?
物事はまず科学的な評価を下してから議論するべきです
感情に流されると必ず極端な方に向かい「言霊」に取りつかれはじめ、リスクを聞いても「そんな縁起悪いことをいうな」「反対の意見を言うやつはけしからん」といった戦前の軍や右翼と同じ反応が溢れる 誰もがそれにビビッて本当のことが言えなくなる
原発も同じことで「絶対安全」などとほとんど宗教のようなことを言わないと建設が許されず、避難等を想定した深刻な危機への対策が事前に立てられなかったのではないかと思います
感情という個人的なものは相対的なものであり、絶対的な基準にはなりえないので勘案すべきではありません。感情が大事という人はたいていの場合「自分の感情」が大事なだけであり、他人の感情を尊重はしません。彼等は自分と異なる感情を持つ人間を「冷たい人間」だと断罪するだけです。
例えばこういう意見の人もいます。
「原発事故で避難生活の80代男性「私は東電を許します」」
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20110409/dms1104091445015-n1.htm
感情を尊重すべきと述べる人々はこの老人の感情も尊重してくれるのでしょうか?
>日本で原子力施設の放射能で死亡した事故は50年間で2人だから、1年間に0.04人が死んだことになる
それは3.11以前の数字ですよ。Level7の福島原発の事故の影響は数十年調査しないと分かりません。更に残念ながら、死因が放射性物質の体内被曝によるものかどうか立証は困難でしょう。
>この「テロ」を「原発」と置き換えてみよう
因果関係の立証が出来ないと損害賠償の裁判は起こせません。そこが放射能汚染と自動車やテロとが異なる所以です。置き換えるのは理屈に合いません。
更に今後他の原発や高速増側炉、放射性廃棄物処理施設が事故を起こす「可能性」もありますよ。
なお放射能で死亡したわけではありませんが、「もんじゅ」関係で自殺(?)した2人も加えてくださいな。
統計・確率では池田様のような結論になるのでしょうが、どうも納得ができない。日本人だけが「核アレルギー」だけではなく、世界中が怖れているのはなぜか。肝心な被害情報が隠蔽されていると思われるからだ。原子力で儲けている連中は世界規模だ。どんな汚い手を使ってでも原子力利用を進めようとしている。JCO臨界事故でも健康被害調査もおざなりで、以前の公害のとき以上に原発推進のため、御用学者から裁判所までを総動員して押さえ込んでいったことが徐々に漏れ始めている。被曝してもがん・白血病の発症について、現在の医学では明確な証明ができないことをいいことに、御用学者たちが「大丈夫だ」「安全だ」の大合唱をしても、信用されていない。悲惨で隠された被曝労働者のことも捨象している。各種健康被害に関する統計・確率も原発推進に都合がよいようにデータ改竄されているのではないかと疑ってしまう。原発推進は世界的極悪の連中が関与しているとしか思えない。池田様の経済からあらゆる分野についての日頃の鋭く独創的な見解については尊敬吝かではないですが、残念ながら原発についての発言はどうも無理があるのではないかと思ってしまいます。
この本は読んでいないので評者への感想ですが・・・
統計的に最も安全、とはなんでしょうか?平均寿命30代の世界があり、80代の世界がある。原発で言えば、原発に接した生活もあれば、原発から遠く離れて電気を消費する生活もある。
このようにリスクが大きく偏在する集団について十派一からげに
統計を語るとろくなことにならんのが通例ですけどね。
確かにバイアスを自覚するのは重要でしょうが、統計の安易な利用は別のバイアスをもたらしますよ。
twitterのtanbom2001氏のコメントが面白い。上で私が書いた「感情」に関する点とも関わって来ると思われるので紹介したい。
「原発推進・容認派のリスクの捕らえ方の違いをようやく理解した気がする。容認派は人が何人死ぬかという基準でモノを語っているが、反対派は今の生活を失うかどうかという基準で考えている。リスク許容のバーの高さの違い」
私や池田さんのような職種の人は、どこで生活するかは大きな問題ではないので、それ相応の費用さえ出して貰えれば簡単に移住出来るであろう。だから「死ぬほどではないなら移住すればいいか」という考え方になる。
しかし、「長年農業を営む」「長年牧畜を営む」「工場を経営する」「商店を営む」等の地域や土地と密接に関わる職種の人にとっては、地域との関係性も無形の財産であり、それを失ってしまうと生活が成り立たなくなる。
となると、移住に当たり、私のような職種の人と地域密接型の職種の人への賠償金が同じ基準で決められてしまっては「不公平だ・不公正だ」という感情が湧くのも当然であろう。そのような職種の人々の感情に報いるには、土地の評価額などとは別に補償を行う必要があるのではないかと思う。
変化率のお話、非常にごもっともなのですが、反原発に走る人たちの心理はそれだけじゃないと思います。
彼らはそもそも、こういった推定の根拠となるデータそのものを信じていないんです。統計で嘘をつく方、とか、反社会学講座、なんて本がありましたが、原子力に肯定的な立場の人達が編集したデータと、それに基づく統計は、まるっきり信じてません。
逆に、KURRI(京大原子炉実験所)のような、反原発の立場から学術的に研究してきた人たちのデータと結論は、(KURRIが反原発という異端だと事前に知っていれば)信じます。
基準値が事故前から増えたときに事故前の数字を信じるのは、変化率に反応しているのかもしれません。が、KURRIの先生ですら安全だと言っているなら安心する、という場合は、戦略というか、思考法の一種ではないでしょうか。
航空機は短時間で長距離移動を求める
自動車は距離よりも小回りを求める
落雷は一過性であり、同じ場所に居続ける事が可能
放射能漏れは一過性ではなく同じ場所に居続けることが可能かどうかも長年にわたって分からない
バイアスによって行動するからこそ隙間が生じて、モノが売れるのである。
モノが売れる仕組みをなんとなく説明する能力があるように見えるからセンセイのような仕事で食えるのである。
比較するモノのセンスが最低レベルである。
もっと説得力があり、笑われない比較を学ぶべきだと指摘しておく。
生命へのリスクという観点からは、池田先生のおっしゃるとおりだと思います。しかしながら、他の方も指摘されているとおり、原発その他の問題のインパクトはそれだけにとどまりません。池田先生は普段から、そのインパクトを経済問題として扱うべきだとおっしゃっていて、私もそれには賛成なのですが、問題は人間の感情というやつが金額に換算しづらいところだと思います。
本書は読んでいないので、書評とコメントの数々に対しての反応です。多くの方が勘違いをしているようなのですが、リスクを数字にして考える(定量化する)ときは、未然に防がれたリスクも考慮に入れます。結果のみの統計数字を見るのではありません。経済学や会計上などで、機会損失を試算するのと同じです。
特にここでは明白な因果関係があるので、結果を見てリスクを論じるのは全くのナンセンスです。44パーセントの人がテロを恐れている社会で、テロを起こすことは、難しいです。防犯カメラ、警備員などがそこら中に配置され、政府、警察もテロへの対策をしっかりと打ち立てるからです。結果として、テロで死ぬ確率は下がります。仮に統計数字だけを見て、テロは雷よりこわくないといって、何の対策も講じなければ、テロは劇的に増えるかもしれません。
同じ論理を使って仮の話をすれば、子供の小学校に変質者が入ってきて生徒に危害を加えるなんて確率はほとんどゼロに近いのだから、校門の警備や防犯カメラなど金の無駄だという校長先生がいたら、おそらくほとんどの保護者は納得も同意もしないのではないでしょうか。警備や防犯カメラのおかげで、犯罪が未然に防がれ、確率が低くなっているのではないか、と考えるからです。