震災後、テレビ、新聞、そしてネット上を流れる夥しい量の情報に振り回された。そして、可能な限り、自分の手と目で一次情報に当たり、その情報の解釈について立場の異なる複数の専門家の意見を聞き、最終的に自分の頭で結論を導くことの大切さを痛感した。
ほとんどの人が原典に当たらないまま、矮小化された孫引きの言い伝えを信じて行動してきたことで、我が国の経済に大きな負の遺産を残したものの一つに、ケインズの「一般理論」がある。少し前になるが、ある勉強会で同書を1年かけてじっくり読んだことで、自分がそれまで持っていた(限られた)ケインズ理論に関する理解が大きく変わった。震災後の復興、あるいは次なる景気後退局面での打ち手を考えて行く際にも参考になると思われるので、もう一度「一般理論」を本棚から引っ張り出して、読み返してみた。
ここでは「ケインズ政策によれば、政府は穴を掘ってでも雇用を創出するべきであるとされる」と一般的に理解されている点について、ケインズ自身の言葉を紹介したい。(もとより、言うまでもなく、私は経済学者でなく、英語が得意な(英国で幼少期を過ごした)一経営者に過ぎないので、以下は私自身の意訳と解釈に過ぎないことはお断りしておく。)
実際には、「穴を掘る」という記述は、「一般理論」では二か所で紹介されている。「限界消費性向と乗数」について論じた第10章と、「資本の性質に関するくさぐさの考察」と題した第16章である。
第10章における記述
If the Treasury were to fill old bottles with banknotes, bury them at suitable depths in disused coalmines which are then filled up to the surface with town rubbish, and leave it to private enterprise on well-tried principles of laissez-faire to dig the notes up again (the right to do so being obtained, of course, by tendering for leases of the note-bearing territory), there need be no more unemployment and, with the help of the repercussions, the real income of the community, and its capital wealth also, would probably become a good deal greater than it actually is. It would, indeed, be more sensible to build houses and the like; but if there are political and practical difficulties in the way of this, the above would be better than nothing. (Ch.10, p.129)
【意訳】
財務省が古い瓶に紙幣を詰めて炭鉱の跡地に適切な深さに埋め、採掘権を競り落とした民間企業にレッセ・フェールの原則に基づき掘り出すことをさせれば、失業はなくなるだろう。波及効果で所得も資本蓄積も増えるだろう。もちろん、住宅などを建設する方が賢明なのだが、政治的な理由でそれが難しいのであれば、何もしないよりは上記の方がいい。
ここでは単純に「穴を掘る」だけでなく、「紙幣を詰めた瓶を適切な深さに埋め、それを掘り出す」としてある。それには、訳がある。これは金の採掘とのアナロジーとして挙げているのだ。以下のように続く。
The analogy between this expedient and the goldmines of the real world is complete. At periods when gold is available at suitable depths experience shows that the real wealth of the world increases rapidly; and when but little of it is so available, our wealth suffers stagnation or decline. Thus gold-mines are of the greatest value and importance to civilisation.
(中略)
In addition to the probable effect of increased supplies of gold on the rate of interest, gold-mining is for two reasons a highly practical form of investment, if we are precluded from increasing employment by means which at the same time increase our stock of useful wealth. In the first place, owing to the gambling attractions which it offers it is carried on without too close a regard to the ruling rate of interest. In the second place the result, namely, the increased stock of gold, does not, as in other cases, have the effect of diminishing its marginal utility. Since the value of a house depends on its utility, every house which is built serves to diminish the prospective rents obtainable from further house-building and therefore lessens the attraction of further similar investment unless the rate of interest is falling part passu. But the fruits of gold-mining do not suffer from this disadvantage, and a check can only come through a rise of the wage-unit in terms of gold, which is not likely to occur unless and until employment is substantially better. (Ch.10, p.130)【意訳】
この営みと現実世界の金鉱とのアナロジーは完璧である。金が適切な深さ(=適切なコスト)で採掘可能であるときは世界の富は急増してきた。それが不足するときは、富は沈滞するか減少した。それゆえ、金鉱は文明社会にとってもっとも価値があり大切なものである。
(中略)
金供給量の増加が金利引き下げ効果があることに加えて、金の採掘は(他のより有意義な公共事業が実行できない場合には)以下の二つの理由で実践的な投資である。まず、その賭博的な要素ゆえ、ときどきの金利水準を問わず企業に取り組んでもらえる。加えて、金は他の資本と異なり、そのストックが増えることで限界効用は減らない。例えば住宅は供給が増えることで見込み家賃が下がり、投資のうまみが比例して減るが、金の採掘にはその恐れはない。金の採掘活動にストップをかけるのは、雇用が大幅に改善して賃金が上がることしかない。
ケインズは「意味のない公共事業でも雇用をつくればいい」といった乱暴な議論はしていない。むしろ、とても注意深いたとえ話を選んでいることが分かる。貨幣供給量の拡大による金利低下。射幸心をくすぐる貨幣の掘り出し作業。政府が実際に雇用するのではなく、採掘権をオークションにかけた上で、レッセ・フェールの原理に従った民間投資の誘発。
第16章における記述
次に、第16章。本章は資本蓄積が進み、飽和してしまった豊かな社会において、追加投資が減り失業が拡大しうるといったパラドックスについて考察を深めているが、第3節の最後で「穴を掘る」という記述が出てくる。
If — for whatever reason — the rate of interest cannot fall as fast as the marginal efficiency of capital would fall with a rate of accumulation corresponding to what the community would choose to save at a rate of interest equal to the marginal efficiency of capital in conditions of full employment, then even a diversion of the desire to hold wealth towards assets, which will in fact yield no economic fruits whatever, will increase economic well-being. In so far as millionaires find their satisfaction in building mighty mansions to contain their bodies when alive and pyramids to shelter them after death, or, repenting of their sins, erect cathedrals and endow monasteries or foreign missions, the day when abundance of capital will interfere with abundance of output may be postponed. “To dig holes in the ground,” paid for out of savings, will increase, not only employment, but the real national dividend of useful goods and services. It is not reasonable, however, that a sensible community should be content to remain dependent on such fortuitous and often wasteful mitigations when once we understand the influences upon which effective demand depends. (Ch.16, p.220)
【意訳】
何らかの理由で金利が高止まりしていて投資が増えないような状況においては、人々の貨幣欲を他の資産の所有欲に逸らすことができれば、仮にその投資が経済的にはまったく役に立たないものであっても、経済にとってはプラスとなる。大金持ちが生きているときは巨大なマンションを、死んだ後のためにはピラミッドを建てることに喜びを感じてくれれば、あるいは罪を晴らすたまに大聖堂を建てたり修道院に寄付するのであれば、資本の蓄積と飽和が追加投資を妨げることもなくなるだろう。貯蓄を取り崩して「地面に穴を掘ること」は雇用を増やすだけでなく有益な財とサービスの国富を増やすことに寄与する。もっとも、(本書を読んで)有効需要を決定する要因について理解を深めた後であれば、まともな社会がこのような偶然で多くは無駄を伴う妥協策に甘んじる必要はなくなる。
ここでの「穴を掘る」事例も、それによる直接的な雇用増加ではなく、資本蓄積が飽和した社会においても、貨幣を所有している人に非経済的な理由での投資を促すことができれば雇用は増える、というメカニズムで説明しているわけだ。「穴を掘ってでも雇用を作れ」とは言っていないことが分かる。
第22章における記述
景気後退局面で必要な施策について、ケインズは第22章(ここでは「恐慌」が起こるメカニズムの説明)で以下のように述べている。
Later on, a decline in the rate of interest will be a great aid to recovery and, probably, a necessary condition of it. But, for the moment, the collapse in the marginal efficiency of capital may be so complete that no practicable reduction in the rate of interest will be enough. (中略)it is not so easy to revive the marginal efficiency of capital, determined, as it is, by the uncontrollable and disobedient psychology of the business world. It is the return of confidence, to speak in ordinary language, which is so insusceptible to control in an economy of individualistic capitalism. This is the aspect of the slump which bankers and business men have been right in emphasising, and which the economists who have put their faith in a “purely monetary” remedy have underestimated. (Ch.22, p.316-317)
【意訳】
危機が起きてしばらくしてからは、利下げは回復のために重要な助けとなるが、しばらくの間は企業の投資期待収益の下落が大きすぎるため、利下げだけでは投資を誘発するには不十分である。投資期待収益は、コントロール不能で言うことをきかない経済界の不安定な心理によって決定されるのであり、回復させることは容易でない。個人主義が確立した資本主義社会において意のままにならないのが、いわゆる確信の回復である。この点が危機について銀行家やビジネスマンが正しくも強調してきたことであり、純粋に金融的な解決策を主張してきた経済学者たちが過小評価してきたことである。
政策決定者がこれらのケインズの言葉を注意深く読んでいたら、バブル崩壊後、麻薬のように大規模な財政支出を、続けていたであろうか?目先の雇用創出よりも、「確信の回復」のために何が必要か、自身に問い続けなかったであろうか?後講釈で評価することは容易であるから、私が当事者として正解を導き得たということは言うつもりはない。しかし、この天才の言葉と真剣に向かい合うことなく、矮小化された孫引きの解釈だけを参照してきたことが、現在の日本経済の構造的な低迷の一因になっているかもしれない。ケインズをゆっくり読み返して、そのような感想を持った。
いやしくも、ケインズ本人が「一般理論」の最後で語ったように。
But, soon or late, it is ideas, not vested interests, which are dangerous for good or evil. (Ch. 24, p.384)
遅かれ少なかれ、世の中にとって良くも悪くも危険となりうるのは、既得権益ではなく、思想なのである。
コメント
とてもよい解説ですね。感心しました。ありがとうございます。
あまりにつまらぬ評論ばかりでうんざりしてたところに、岩瀬さんの謙虚に先人の言に耳を傾ける姿勢に感服致しました。
> 大金持ちが生きているときは巨大なマンションを、死んだ後のためにはピラミッドを建てることに喜びを感じてくれれば、あるいは罪を晴らすたまに大聖堂を建てたり修道院に寄付するのであれば、資本の蓄積と飽和が追加投資を妨げることもなくなるだろう。貯蓄を取り崩して「地面に穴を掘ること」は雇用を増やすだけでなく有益な財とサービスの国富を増やすことに寄与する。
ここがポイントですね。穴を掘って埋めるのは、国(公共事業)ではなくて、大金持ちです。
なるほど。そうしてくれれば、たしかにありがたい。
孫正義も、100億円で景気回復効果が少し出そうです。貯蓄で死蔵よりはずっといい。ついでにピラミッドでも建ててくれるといいんだが。
見事な翻訳ですね。こうした事例はケインズに限らないのではないか。例えばマルクスなども資本主義をイノベーションだと評価していることを日本では誰も言わない。労働者の権利闘争(というより大企業社員と公務員の権利のみ主張)の手段に使われ、結果的に日本はソビエト連邦のような歪な社会になってしまった。世界中探しても平均年収が10万ドルの労働組合員なんて存在するでしょうか?(共済年金加入者の平均年収は900万です)
ケインズ面白いですね。 Livedoorのリンクで読んで後悔しなかった記事はこれが初めてです。
ただ、
”a rate of interest equal to the marginal efficiency of capital”
この前提は globalization of capital flow の結果崩れてますね。投資家も個人ではなく組織になってしまっている。だから, In the institutionalised and computerized financial market of today, investors may always hold wealth towards more wealth and it may no longer be prudent to rely on the human vanity to kill the gold laying-fowl. って思います。
gold mine analogyについては、
owing to the gambling attractions which it offers it is carried on without too close a regard to the ruling rate of interest
が鍵ですね。この流れだと、酒場を作った人だけが最後に残っちゃいますし、人間楽しい方に行くので、他の産業が衰退してしまう。
それにケインズ自身がうまくいくとは思っていない:It is not reasonable, however, that a sensible community should be content to remain dependent on such fortuitous and often wasteful mitigations when once we understand the influences upon which effective demand depends.
最も本当に問題なのはコミュニティが甘んじてしまうことなんですが・・・。
社会の半分はムダで出来ているので、ケインズは間違っていない筈なんですが、 人工の宝石が売れないように人工の金も供給を抑えないと売れなくなる。 そして供給を抑えることは日本の国債発行額を見れば・・・。
それに皆が金を掘るように成ると、誰も畑を耕さなくなっちゃいますしね。
10章の記述は、 射幸心をあおるように金をばら撒き、 さらにその金をさがすために労力を浪費させろということですか? また、 今は金本位制でないですから、 金に安定した価値はないとおもいます。 1980年代には、 金の価格は暴落しました。
16章の記述は、 バブルのすすめともとれます。 最初の文章がよくわかりません。 ”with a rate of accumulation” の ”rate” は何の rate でしょうか? 利子、 資本の利益率、 それとも財産の増分のいずれですか? 最後の文章は、 10章の最初の記述とバブルの効用を否定しているようです。
みなさん、 どうおもいますか? それにしても、 昔の偉い人は判りにくい文章を書いたものですね。
> それに皆が金を掘るように成ると、誰も畑を耕さなくなっちゃいますしね。
カルホルニアのゴールドラッシュでは、 金をみつけて金持ちになった人は少数で、 利益をあげたのは、 道具とか日用品を売った人達とのことです。
> ” investors may always hold wealth towards more wealth and it may no longer be prudent to rely on the human vanity to kill the gold laying-fowl.”
これは、どう言うことですか? どなたか、説明してください。
> ” investors may always hold wealth towards more wealth and it may no longer be prudent to rely on the human vanity to kill the gold laying-fowl.”
>これは、どう言うことですか? どなたか、説明してください。
それは私が書いたものでケインズが書いたものじゃありませんよ。
gold laying-fowl 金を生む鶏
vanity 見栄
hold wealth towards more wealth もっと大きなお金のためにお金を貯蓄する
つまり「もう投資家が見栄ために投資資金(金を産む鶏)を使う事に期待することは賢くは無いかもしれない。彼らはより稼ぐために資金を貯め続ける可能性がある」とケインズっぽく書いたのです。
> … will increase economic well-being. In so far as millionaires find their satisfaction in building mighty mansions to contain their bodies when alive and pyramids to shelter them after death, …
エジプトのピラミッドも日本の城郭も奴隷や農民を使役したのであって、 ”increase economic well-being” どころか、 ”decrease economic well-being” であったとおもいます。 なにしろ、 供給力が徹底的に不足していた時代のことですから。
いまは、”to rely on the human vanity to kill the gold laying-fowl”となったとのこと、了解しました。
科学とか技術の面では、 なにも原典を読む必要はありません。 要領よくまとめた最新の教科書か専門書を読めばじゅぶんです。
そういえば、マルクス経済学とかケインズ経済学とか、 人名が使われているということは、 教祖の説がだいじなのですね。 とすると、 経済学には訓詁学も必要なようです。
> いまは、”to rely on the human vanity to kill the gold laying-fowl”となったとのこと
また間違えました。 この逆です。 年をとるというのはつらいです。 よく、 ま血がえま寿司、 アゴラではゴミのようにいわれるし。
> カルホルニアのゴールドラッシュでは、 金をみつけて金持ちになった人は少数で、 利益をあげたのは、 道具とか日用品を売った人達とのことです。
それは半分正しく、半分間違い。
道具とか日用品を売ったというのは確かですが、普通の人に普通に売ったのではありません。それでは儲かりません。
一攫千金を夢見た人たち(噂にだまされた人たち)に、酒や宿を高値で提供した人が儲けました。カモを利用した人が儲けました。
地道に働くだけでは、儲かりません。一攫千金を夢見る阿呆の金を巻き上げた人が儲けたんです。一番儲けたのは、カジノ屋でしょう。
震災後も、同じ発想をする人がいます。被災者の金を巻き上げようとする人もいるらしいですね。
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ケインズは、実益のある事業よりも無駄な事業をする方がいい、と述べているわけではありません。
金持ちが金を眠らせて死蔵させるよりは無駄な事業の方がマシ、と述べているだけです。金持ちがピラミッドのかわりに、自分の豪邸を建設すれば、実益のある事業になるかもしれませんが、得をするのは金持ち本人であって、一般大衆にとっては、ピラミッドと同様です。
「どマクロ経済学者」として何かと評判の悪い小野善康先生ですが、有名になった著作は「貨幣経済の動学理論」という本で、新古典派の理論にある仮定を置くと、ケインズ経済学が数学的に導かれるという論文でした。
その仮定とは、貨幣の流動性プレミアムが永久にゼロにならない、つまり、貨幣は使うためだけではなく、稼いで貯めること自体に「効用」があるという仮定です。そう仮定すると、世の中で回転する貨幣が、放置するとどんどん減ってしまう。このため不況期では、金融政策で貨幣を増やして貨幣の相対的価値を下げる、財政政策で儲かるビジネスと新商品を増やして貨幣を使わせる(投資させる)、必要があるという説です。
小野さんはビジネスの経験がないからか、実体経済の分析や政策提言としてはトンチンカンなことを言いますが、ケインズの言いたかったことを数学的に導出した点は、功績として大きいと思います。バブル期でしたので、現実の経済の分析としては変なところもありましたが。