グローバルで通用する人材の作り方:日本サッカーを見よ!

松岡 祐紀

とある高校に仕事で行ったときに聞いた英語教師の言葉がとても印象に残っている。

いわく「うちのクラスに帰国子女がいて、彼の発音は素晴らしいから一度クラスのみんなの前で音読させたら、わざとすごくヘタに読むんですよ。きっと変に目立ちたくないからでしょうね」ということだった。

英語に限らず、これにと似たような話はよく聞く。クラスで人気のある子はたいていはスポーツが得意な子で、勉強が出来る子はある程度尊敬はされるかもしれないがヒーローにはなれない。下手をすれば「ネクラ」などと言われて、いじめの対象にもなりうる。

スポーツで目立つことは賞賛の対象になるが、勉学で目立つとろくなことにならない。特に英語のような技能になると、それが顕著になる。

スポーツの世界、特にサッカーの世界では飛び級は当たり前だ。今では日本人選手がヨーロッパで活躍するのは当たり前になっているが、ほんの10年前はありえなかった。ではなぜそのようなことが可能になったのだろうか?


そのヒントなる言葉を日本サッカー協会のホームページで見つけた。

トレセンでは、チーム強化ではなく、あくまでも「個」を高めることが目標です。世界で闘うためには、やはり「個」をもっともっと高めていかなくてはなりません。レベルの高い「個」が自分のチームで楽にプレーができてしまって、ぬるま湯のような環境の中で刺激なく悪い習慣をつけてしまうことを避けるために、レベルの高い「個」同士を集めて、良い環境、良い指導を与えること、レベルの高い者同士が互いに刺激となる状況をつくることがトレセンの目的です。

これと同じような仕組みを各分野の科目で出来ないのだろうか?例えばクラスで一番数学が出来る子をまず学年ごとに集めて競わせて、次に地区ごとの選抜を作り、それを国単位まで広げていく。教育には、「上を目指す環境の提供」こそが求められる。

今、学校で勉強することにどれだけの刺激があるのだろう。塾などでの勉強のほうがはるかに実践的だし、子供たちもやりがいを感じているのではないだろうか?

学校教育を諦めて、現在のように塾などで同様なことを行えばいいというという考え方もある。だが、高校までの社会生活は学校が大きな比重を占める。そこでどのように評価されるかどうかが人格形成に大きく左右する。

クラスで一番勉強が出来る子、あるいは学校で一番勉強が出来る子にもっと切磋琢磨出来る環境を学校が提供し、彼ら彼女にもっと上を目指せるような環境を提供しないと、いつまで経っても世界で通用するような人材は生まれてこない。

「上には上がいる」ということを自覚して初めて、人は謙虚になる。たかだか英語の発音が少しくらいうまいからといって、「クラスで目立ちたくない」というような偏狭な心はもっと上の世界を見ることによって劇的に変えることが出来る。また彼らが自分自身の英語なんてたいしたことがないと感じさせる環境を提供することによって、彼らの成長を促すことが出来る。

文科省も「産学連携によるグローバル人材育成推進会議」と銘打って世界で通用する人材の育成を目指しているようだが、どうも中身が抽象的すぎる。

繰り返すようだが、人は上には上がいることを自覚することによって、初めて努力する。別に特別なことを他人が教える必要はない。彼らは周りを見て、自分に足りない部分を自覚する。周りを見て変われない人間は何を言っても無駄だ。それは多くの日本人サッカー選手の海外での活躍度を見ていれば、分かる。(つい先日のサッカーオリンピック代表の試合で大活躍した大津選手が記憶に新しい。ドイツという日本とは異質な環境に放り込まれて、今まで以上に努力したからこその活躍だろう)

教えないと人は育たないという発想こそ改めるべきで、もっと子供たちの自主性を尊重し、彼らを競わせる環境を提供することによって、彼らの能力を伸ばすべきだ。多くの時間を費やさないといけない学校という空間で、多くの秀才や天才たちが学校の授業に死ぬほど退屈している。そのような無駄な時間を減らし、彼らがもっと上を目指せる環境を提供することが学校教育に今求められているのではないだろうか。

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