説明しないことが奨励される社会の、大きな代償  --- 目崎 雅昭

2012年01月16日 08:39

「黙って、とりあえずやりなさい」
という表現をよく耳にする。

そしてブルース・リーの「頭で考えるな、肌でつかめ」は有名だ。
こういった姿勢はスポーツだけでなく、日本では勉強や社会道徳を学ぶことにも使われている。

しかし、これには実はとてつもなく大きな代償があることを見落としている。

たとえば、格闘技の世界を考えてみる。
格闘技で相手と対戦するとき、いちいち頭で考えている時間はない。反応するスピードが遅くなるからだ。だからこそ「肌でつかめ」の感覚を取得することは、達人の域に入ることになる。

しかし私が高校一年生で空手を始めたとき、先輩はきちんと「なぜ空手の突きは破壊力があるか」を、力学的に説明してくれた。全身のすべての筋力を効率よく動かすことで、パワーすべてを拳に集中する方法だ。「正拳突き」の威力は、単なる筋力の結果ではない。

技を取得する前に、理論的な裏付けに充分納得できただけでなく、なんとなくイメージも湧いたので、私は練習に没頭することができた。そのうちに、「どうすればもっとパワーのある突きや蹴りを出せるか」を、自分でも考えはじめるようになった。

もしも「リクツじゃない。黙って従いなさい」と言われ、ろくな説明も無しに練習をさせられていたら、私はあまり空手に魅力を感じなかっただろう。

そうはいっても最終的には、身体にしみ込むほどくり返し練習することで、「肌でつかめ」という感覚に達することは間違いない。しかし私が問題にしているのは、一番最初にどうやって意思決定をしているか、という点である。

別のたとえを考えてみる。ダンスの場合だ。
多くの日本人にとって、ダンスの基本形は「盆踊り」だろう。先日テレビで、ダンスが小学校から必修科目になる、というニュースを放送していたが、そのときダンスの指導者はインタビューで「ダンスは憶えることですから」と答えていた。つまりダンスは、「集団で音楽に合わせてあらかじめ決まった動きをすること」という認識なのだろう。

数年前、私はブエノスアイレスでタンゴを習っていた。タンゴは男性が100%リードするので、男性は特に多くのステップ(動き)をおぼえる必要がある。しかしアルゼンチン人のタンゴの先生は、「ステップは重要ではない。音楽を聴き、それをどうやって自分なりに表現するかだ」と力説していた。来日経験が何度もあるその先生は、「日本人の男性は、沢山のステップを知ってるひとはいるが、ダンスを踊ってる人は少ない」と語っていた。

たしかに私にとっての一番大きなハードルは、「音楽をどうやって自分なりに身体で表現するか」だった。青年時代にディスコ(古い?!)で踊っていたときは、本当に心から踊っている感覚はなかった。周囲の人たちの踊り方を真似て、なんとなくカッコイイと思われる形で動いていた。言うまでもなく、音楽を自分だけの解釈で表現することはなかった。しかし私がこれまで見てきた世界中の国々では、ダンスをする人たちはカッコイイかどうかは二の次で、率直に音楽を身体で表現していた。

ダンスの根本は、自分の意思を外側に発信する「内面の表現」だ。「音楽」と「身体の表現」は一対一ではないし、あらかじめ決められたものでもない。その時々の自分の感情や受け止め方によっても変化する。しかし私は、盆踊りの「音楽に従って決められた形をする」を刷り込まれて大人になってしまった。

もちろん日本の盆踊りは、文化としてきちんと存在意義があるだろう。しかし私にとって最初のダンスとしての盆踊りが身体の自由を奪ってしまったために、感情と身体が一致できない自分がもどかしかった。だからそのギャップを埋めるために、これまでいろいろと試行錯誤をした。インドで一年以上も没頭した瞑想も、自己の一貫性を取り戻すための修行だった。

冒頭でもふれたが、このテーマは運動だけの話ではない。

子供は誰でも、「どうして?」と質問をする。しかしその質問に対して、「うるさいから、黙ってやりなさい!」と大人が言い続けると、そのうちに子供は質問をしなくなるだろう。そして、黙って何でも親に従う子供は「よい子」として賞賛されていく。

すると、子供はそのうち「なぜ」という疑問さえ持たなくなってくる。その後は、「それが社会だから」とか「世の中はそういうものだから」以上に詮索するのをやめてしまう。周囲と同じ事をやっていれば、少なくとも批判されることはないからだ。

そうやって大人になった者は、今度は子供達から「どうして?」と質問されても、「そういうものだから」としか答えることができない。それ以上に「なぜ?」と聞かれると、「黙って従いなさい!」となってしまう。自分がそうやってきたのだから、当然といえば当然の結果だろう。

日本在住の外国人の友人から、こう指摘されたことがある。
「どうして日本人の母親は、いつもあれダメ、これダメと、ダメばかりいうのか? あれでは、子供が萎縮してしまうでしょう」

その通りだと思った。萎縮した子供は萎縮した大人になり、自分の外側にある「常識」に従うことを絶対視する。それは、自己が喪失していくことを意味しないだろうか。

「しつけ」とは、「既存のルールに盲目的に服従させる」ことではないはずだ。子供であってもきちんと説明をすれば、たいていは納得できる。納得しないなら、まず最初に説明が不十分だと思うべきだろう。もしも説明できないならば、それを自分が最初に憶えたときに、どうやって学んだのかを思い出してみるといい。おそらく、黙って服従した自分を発見できるだろう。

「納得しないことに従う」ことを幼少期から課すことは、成長の段階で本人の「意思」を抑圧することになる。誤解されないように強調したいが、「従うこと」自体が問題なのではない。「黙って従う」ことと、「納得して従う」ことは決定的に違う。

自分の心と体に一貫して「イエス」と言えることが、「納得する」という行為だ。しかし納得せずに、黙って従いつづけ、それが当たり前になってしまうと、自分の「意思」も限りなくゼロになっていくだろう。結果として、いくら形やルールを憶えたとしても、自分の意思を犠牲にするほど、そこに価値はあるのだろうか。本人の意思が軽視されることは、人間としての尊厳を失うことに等しい。

意思とは、ひとりひとり固有の、自分を自分としている最小単位の根源である。意思があるから、その人の個性が生まれ、人間としての魅力も出てくる。意思がなければ、それは魂のない人間と同じだろう。

仕方がないから。
それが世の中だから。
ダメなものは、ダメでしょ。

こういったものが口癖ならば、自分の「意思の存在」を疑う必要がある。
「それが日本人の国民性だ」
「日本の文化だから変える必要はない」
などと、安易な反論がでてくる場合も要注意だ。

そもそも文化とは何か。そして、何のために文化があり、なぜ社会が存在しているのか、という点にも疑問を持たなければいけない。「文化」や「伝統」という名の下に、どれだけの意思が潰されていき、どれだけの個性と人間性が犠牲になっているのか、見落とすべきではない。

日本には、「自分が本当に何をしたいのか、よくわからない」と言う人が多い。自分としっかり向き合っていなければ、分からないのは当然だろう。自分と向き合うためには、自分の意思を明確に知る必要がある。

もう一度、ここでくり返したい。「黙って従う」ことと、「納得して従う」ことは決定的に違う。自分で納得した規則やルールならば、それに従うことは苦にならない。それは社会のルールや法律も同じだろう。自分たちで社会のルールを作っているという自覚があれば、そのルールに従うことに誇りさえ感じるだろう。自分の意思が反映されているという実感は、「自由」という感覚にもつながってくる。

もしも今度、誰かに「つべこべいわず、黙ってやりなさい」と言いそうになったら、それは相手の魂を抑圧する行為だと自覚すべきだろう。そして、きちんと説明できない自分をもういちど見つめ直す、絶好のチャンスとすべきではないだろうか。

目崎雅昭
国際文化アナリスト
オフィシャルサイト

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