日本人の「真面目キャラ」に漂う無常観

高橋 正人

日本人は、世界中の人々から「真面目」と評価されている。確かに、大震災後の日本人の秩序ある行動は記憶に新しいし、日常生活においても、日本人の真面目さを表すエピソードには事欠かない(列に割り込まない、時間を厳守する、勤勉であるなど)。しかし、日本人の真面目さは長い歴史を持ち、他国民と比較しても絶対的で強固な国民性であり続けると考えて良いのだろうか。

1.いつから真面目になったのか


日本人はいつから真面目になったのだろうか。戦前の日本人についての言及を確認すると、真面目とは到底言えないような評価が多く残されている。

まず、公共交通機関での態度について興味深い記述がある。1920年、東洋経済新報の若手記者であった高橋亀吉氏が欧州を視察した際、イギリス及びフランス国民が秩序を保って整然と電車やバスに乗り込む態度に感心する一方、

当時日本では、電車やバスに乗るのに、われ勝ちに先を争って押し合っていたのに対し、これを日本人の公衆道徳の低さとして非難されていた(中略)。(高橋亀吉「『私の実践経済学』はいかにして生まれたか」)

と日本人の道徳心について国際的な評価が低いことを嘆いている。

仕事ぶりについても真面目とは程遠い状態だった。1920年代、イギリスのアームストロング社で工場管理を学び、日本の工場に管理技術を導入した人物は、

職工は就業前の身支度に暇がかかる、作業中に無駄口を利く、一方、監督は溜まりで茶煙草を喫むのを仕事と心得ている。これが日本の実状である。(橋本毅彦他「遅刻の誕生」)

と工場労働者の勤務態度を酷評している。

工場労働者に加えて事務員も同様のようである。同じく、1920年代、金融機関の役員は、

近来一般社員の勤務振りは、朝出勤すると先づ同僚と雑談をする、喫煙する、小便に行く、面会人がある。又ブラブラと散歩する、と云うような風で一向に能率とは没交渉であるようだ。(橋本毅彦他「遅刻の誕生」)

とホワイトカラーの怠惰な仕事ぶりについて不満を漏らしている。

このように、当時の日本人の公共交通機関での秩序のなさや勤勉とはいえない働きぶりについては、まるで現代の一部の開発途上国に対する評価を見ているようである。

日本人の真面目さが国民性と言えるまでに成熟し、国際的にも明確に認知されたのは、昭和以降のことであり、日本人古来の特徴というわけではない。学校教育での指導や軍国化・工業化の過程で「秩序を守ることや勤勉であることは美徳である」という価値観を叩き込まれ、日本人は徐々に「真面目」になったのだ。

2.結局は仕組みの問題

上記で確認したとおり、我々日本人は「根っからの真面目で勤勉な国民性」などもっていない。真面目にならざるを得ない社会的・組織的な仕組み(インセンティブ設計)が真面目さを醸成しただけのことである。

日本人だけではなく、他国においても同様の例がある。

中国に行ったことのある人であれば見覚えがあるだろうが、中国の出入国審査のカウンターに興味深い機械が設置されている(知らない方はこちらのリンクを参照)。これは、出入国者が直接その場で審査官を評価できる機械である。「Greatly satisfied(大満足)」、「Satisfied(満足)」、「Checking time too long(時間掛かり過ぎ)」、「Poor customer service(ひどい)」の4つのボタンがあり、個々の審査官のID番号毎に評価が集計される仕組みになっている(銀行の窓口などにも類似の機械が置かれている)。低い評価になった場合、罰則があるようだ。

この機械の設置前後での審査官の態度の変貌ぶりにはかなり驚かされた。機械の設置前は、パスポートを放り投げる、気だるそうな表情で対応する、隣の審査官と雑談をしているなど態度の悪さが目立っていたが、設置後は明らかにパスポートの扱いが丁寧になり、人によっては笑顔も見せるようになった(私の見た審査官が特別だったわけではない。複数の人に聞いたが、同様の感想だった)。

このように、適切な仕組みさえ整えれば、真面目な仕事ぶりを引き出すことが可能なのだ。

家電などの製造技術が新興国に急速にキャッチアップされてしまったのと同様に、「真面目、勤勉といえば日本人」という絶対的な評価も、今後、一層薄れていくだろう。また、他国を評価する際も「**人は不真面目」などと短絡的に国民性を決め付けてしまうのは良くない。我々日本人も「真面目キャラ」を確立してから、高々3~4世代しか経過していないし、今後の社会の仕組みによっては再び「不真面目キャラ」に回帰するかもしれないのだから。

高橋 正人(@mstakah