今文楽は大きな危機に直面している。だが、こうした事態が訪れることは、十分に予期されたことでもある。というのも、文楽は興行だけでは成り立たず、国や地方自治体の財政的な援助によって支えられてきたからだ。財政が危機に陥れば、国も自治体も文化事業への援助を見直すようになる。また、文楽が現在置かれた状況は、長年の経緯によるもので、一朝一夕に改められるものではない。
江戸時代にはもちろん、近代に入ってからも、文楽(人形浄瑠璃)は庶民の芸能として人気を集めてきた。人形を操ろうという素人はほとんどいなかっただろうが、義太夫の太夫を真似る素人はかなりいた。日本三大推理小説の一つに数えられる『ドグラ・マグラ』の作者、夢野久作の父親で国家主義者だった杉山茂丸は、義太夫にのめり込み、『浄瑠璃素人講釈』という名著を残している。ちなみにこの本は、今岩波文庫に入っているが、池波正太郎の愛読書の一つだった。
文楽が人気を集めた理由の一つは、巷で起こった心中などの事件をすぐに脚色し、舞台にのせたことにあった。つまり文楽は、現代の週刊誌やワイドショーと同様に、かなりスキャンダルなものだったのだ。そのために、取り締まりを受けたこともあったが、現実をすばやく取り込むことで、庶民の関心を集めた。その伝統を受け継ぐなら、最近犯人とされたネパール人が釈放された「東電OL事件」など、文楽の演目になっていても不思議ではないのである。
江戸時代には、文楽は歌舞伎と人気を争い、文楽の方が人気を集め、歌舞伎が衰退していた時期もあった。ところが、現在では、歌舞伎が、歴史上一番というほど隆盛を極めているのに対して、文楽は大衆的な人気を失ったままの状態にある。
もっとも最近では、東京での文楽の公演は相当な人気で、チケットを取ることに苦労するほどだが、文楽が生まれた本場の大阪では、国立文楽劇場という専用劇場があるにもかかわらず、さほどの入りではないという。それが、橋下徹大阪市長による文楽批判に結びついた面がある。大阪で文楽がいつも盛況なら、こうした批判も起こらなかったであろう。
では、文楽を救う方法はあるのだろうか。一つは、橋下市長にさっさと国政に出てもらって、人形のように首をすげ替えて、文楽を支えようという意欲をもつ市長なり知事なりを生むことだが、政治力があるとは言えない文楽協会が活動しても、それは難しいだろう。
となると、一つ考えられるのが、歌舞伎界が支えるという方向である。今歌舞伎界は、相当な人気を誇り、しかも、来春には新歌舞伎座のオープンという、自ずと人気を高めるイベントを控えている。歌舞伎の公演が開かれている劇場には多くの観客がつめかけており、各劇場は歌舞伎頼みの状況にある。
歌舞伎は、もともと文楽と密接な関係をもっている。とくに「時代物」の演目となると、そのほとんどは文楽から取り入れられたものである。たとえば、三大歌舞伎と称される「仮名手本忠臣蔵」、「義経千本桜」、「菅原伝授手習鑑」は、最初文楽として上演されたものが歌舞伎化され、今日に伝わっているものである。
著作権の考え方が、現在と江戸時代では根本的に違うわけだが、歌舞伎は文楽で人気が出た演目をぱくっただけだとも言える。なかには、「勧進帳」のように文楽が歌舞伎を取り入れたものもあるが、文楽が先行しなければ、歌舞伎は今日のような形にはならなかったであろう。その点で、歌舞伎界には文楽に大恩がある。
歌舞伎の方は、明治に入ると、演劇改良運動などの影響で、近代化を果たし、新しい作品も次々と作られてきた。現代でも、歌舞伎界の外側にいる劇作家が、新たに歌舞伎の作品を書き下ろし、それが上演されることも珍しくない。文楽でも、そうした試みが行われていないわけではなく、今度の8月には三谷幸喜の書いた文楽がパルコ劇場で上演されることになっているものの、文楽で上演される作品のほとんどは江戸時代の作である。
したがって、文楽の作品が歌舞伎に取り入れられるということはなくなってしまった。そして、歌舞伎と文楽は別々の道を歩み、両者の交流もほとんど行われなくなった。最近では、たまに文楽の太夫や三味線が歌舞伎の舞台にのぼることもあるが、一時は、それさえタブーとされていた。
そのためもあり、歌舞伎と文楽は完全に別のものとして扱われてしまっているが、本来その結びつきは強い。歌舞伎が文楽に大恩があるのならば、文楽の危機を救うために、歌舞伎界が策を施してもよいのではないだろうか。もし、文楽がこれ以上衰退してしまったら、歌舞伎もその影響を受けることになるのではないだろうか。
歌舞伎役者が文楽の人形と共演してもいいだろう。合同の公演だって、さまざまなやり方が考えられる。歌舞伎独自の演目を文楽に移し替えることも、もっと積極的に行われていいだろう。あるいは、今回四代目を襲名した猿之助などは、歌舞伎と文楽とを結びつけるうってつけの人材かもしれない。
歌舞伎界では、年配の名優たちが次々に亡くなり、その分、世代交代が進んでいる。それによって、若い役者たちが活躍する機会も増えているが、大人の芸に接する機会が減っているようにも思える。
それに比較して、今の文楽では、「至芸」と言えるような優れた大人の芸に出会うことが、まだある。たとえば、昨年2月国立小劇場での「桜丸切腹」では、住太夫の語る白太夫の嘆きは圧巻だった。文楽の優れた舞台では、人形を操る人形使いが消えると言われているが、私はそのときまさにそれを経験した。
こうした舞台があるかぎり、やはり文楽の火を消すわけにはいかない。何か、根本的な方策を考えるべき時にさしかかっていることはたしかである。
島田 裕巳
宗教学者、文筆家
島田裕巳の「経堂日記」