経済学の限界を超える「新しい消費喚起」が日本を救う。

2012年07月05日 17:41

過剰消費と年金・・・という釣雅雄氏の記事を拝読していて、論理としては非常になるほどと思うものの、すぐに積年の「経済学」への疑問がまた湧き上がって来ました。

以前「デフレの真因から見えてくる日本経済の大転換」で書いたような問題、つまり、

「同じ数字」として現れる「投資額」や「消費」の「中身」・「質」こそが、これからの現実の経済においては重要なのではないか

ということです。


釣氏の議論に限らず、現在の日本の「投資」の低迷を嘆く論調は多くあります。

また、今後「景気が回復」した時に、「投資」がマクロに見て大きくなれば、資金需要の増加から利子率が高くなって、国債の利払い負担が急上昇、日本はピンチに陥る・・・つまり日本経済は低成長だから生き延びられているが低成長のままではいずれ国家財政が持たず、だからといって景気が回復局面になるとさらなるピンチに陥る袋小路なのだ・・・という理解です。

この論理は、論理として見ると非常に「納得感」があるのですが、この議論に触れるたびに私は、大学時代に経済を学んだ時も、そして外資コンサルティング会社で日本政府による経済分析プロジェクトに参加した時も、常に持っていた「違和感」を感じます。

それは、「投資」とか「資本ストック」というものを、物凄く単純化して「一つの財」のような抽象的な認識に落としてしまっている部分からくる「無理」であるように思います。

つまりは、これからの日本は、「あまり巨額の資本投資を必要としないような景気回復」を目指すことが必要だし、それが可能だと思うのです。

それは、「既に投資された資本ストック」を、「もっとうまく使う」ことによって新しい「需要」が生み出される、そういう発想こそが、これからの時代に「本当に新しい価値」として生み出されるものだと思うからです。

例えば、糸井重里氏の「ほぼ日」で、以下のような記事を読みました。

東北の漁師さんたちが伝統的に食べていた「そこにしかない味」を、そのまま届ける「新しい価値」に転換しようとする試みの話

それに参加している漁師さんたちの声

この動きはまだ大きな成果を生んでいるとは言いがたいですが、ここには全く新しい「顧客体験」を生み出す「価値の産出」が生まれていると言って良いと思います。

そして、そのプロセスにおいて「投資」されたのは、CASという特殊な冷凍庫の設備だけです。もちろん、その設備自体は彼らとしては「高価な額の”投資”」になっていますが、その他の旧来型の産業が立ち上がる時の「投資額」に比べると非常に小さな投資となっています。

今後この事業が立ち上がっていった時に、そこから産出される「新しい商品」を配送するための道や鉄道やトラックや国際物流の仕組みやインターネットや・・・という「資本ストック」は、既に我々は余るほど持っているわけです。

つまりこれからは、その「既にある資本ストック」に「載せる価値」を徒手空拳に考える機能を個々人が考えていくプロセスこそが「価値源泉」となるのであって、今までの「箱物を建てる」的な投資額が必要な事業とは違う形の「新しい景気回復」がありえるはずだと思うのです。

そういう動きは、今までの「主要産業」が目に見える形で大きく存在するような経済の形とは違う、

「無数の考えつくされた小ビジネスが同時多発的に生まれてくる」ことによって「全体としての大きさ」が実現するような経済になる

はずです。

今後の世界は、コモディティ(代わりがいくらでもある大量生産的に対応できるベーシックな消費)的な部分は徹底的にそちらに動いていくでしょう。しかし、「大量生産品」だけで我々は「満足」できるわけではありません。

その「アンチ大量生産品」といった部分を今になっているのは「有名高級ブランド」的なものですが、いずれそこに「パーソナルなセルフブランディング的商品」が多く食い込んでくる時代になってくるはずです。

「グローバリズムを利用した徹底した安価路線の商品」と「一点ものの価値凝縮型商品」以外の「中間の商品」の価値が急激に下落していくことは社会的な痛みを伴いますが、しかしそのプロセスによって我々は「一点ものの価値凝縮型商品」を、「創りだす喜び」も「消費する喜び」も多く体験できるようになっていくでしょう。

その為には、「高度な消費文化の形成」自体が「投資」になるのです。現状の日本のマクロに見た「投資額」が減少しているのは、とりあえず「それを本当に欲しいかどうか」といった「実存的検証」のない「箱物的なカネの動き」に対する抑圧力がかかっているという意味において、「将来への意味のある算段」と捉えることが可能だと思います。

大事なのは「過去に投資した資本ストック」が常に「減価償却」的に価値がなくなっていき、「生産力」が失われてしまう・・・・という、この「大量生産工業的価値観」が色濃く反映した「経済学の抽象化の癖」が持っている「嘘」に気づくことではないかと思います。

そうではなくて、

「既にあるインフラ」を、「どう活用」し、そこに「個々人の真実のニーズ」を乗せていけるような「組み合わせ」をいかに載せていくことができるのか?

そういう、どこまでも「パーソナル」な領域を掘り下げるムーブメントが起こせるかどうか

が、既存経済学による分析からはどこにも活路が見いだせない日本の、「これからの本当の希望」であると思います。

私は既存の「経済の見方」からは見えてこない、「よりパーソナルで、フィジカルで、フィロソフィシャルな」領域から、時間をかけて「経済を内部変質させていく」ことが、これからの日本の残された希望だと考え、その萌芽を「個人」の内面から掘り起こしていく活動をしています。

ご興味をお持ちの方は、そういう「四角い箱」以前の「真実のニーズ」について、最近話題の奇人、坂口恭平氏が提唱する「ホームレスの経済」やグラミン銀行等の事例からより深く掘り下げたブログ記事をご覧いただければと思います。

倉本圭造
経済思想家・経営コンサルタント
公式ブログ 「覚悟とは犠牲の心ではない」
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倉本 圭造
経済思想家、経営コンサルタント

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