「公権力による芸術批判」を繰り返す橋下市長は「レッドカード」!

北村 隆司

少数与党でありながら、瞬く間に教育行政基本条例や職員基本条例を成立させ、永年の懸案であった市営地下鉄の完全民営化や大阪広域水道事業統合の具体化にも目途をたてるなど、「政治家」橋下の手腕は目を見張るものがあり、決められる政治が必要な日本政治の模範である。

問題は、「橋下流」の真骨頂とも言える「文化」に関する橋下市長の軽はずみな発言だ。


「中之島や大阪城、御堂筋を、世界の人が一生に一度は行きたい魅力あふれるエリアに変え、文楽とクラシック音楽の本質的問題の運営補助の仕組みを変えたい」等、これまでの市長には無い提案は傾聴に値する。

又、「補助金を得る機会も平等にする必要があり、クラシック音楽に税の助成をするにしても、大フィルに固定化する必要はない」と言う切り口は、言われて見れば当然だが、目から鱗の新鮮味があり、これまでの補助金政策の「習慣化」をあぶりだしている。

これ等の発言は、橋下政治哲学に一貫した考えで、納得のいく発言である。この常識的発言も、これまで、カーテンの内側で文化政策の決定に参画してきた「有識者」には心地の悪いらしく、一斉に「文化の切り捨て」だと非難の声を挙げたのも尤もである。

橋下市長は、クラシック音楽や伝統文化が花咲かない一因を「文化事業に携わる人々が、上から下まで補助金頼りで、市民の共感を呼び、観客を集める努力をしていない事」に求め、反省を促したのも当然である。

この様に、行政の立場から「伝統」や「芸術文化」のあり方を批判した一連お発言には異論はないが、問題は文楽問題を契機に「文化行政」と「文化論」を混同した発言が多発している事である。

例えば、文楽を初めて鑑賞した市長が「ラストシーンでグッと来るものがなかった」とか「時代を反映した新作を作れ」等と文楽の内容そのものに口を出し、あたかも自分の意に沿う事が「補助金の条件」だと言わんばかりの発言をした事だ。

これは、公権力による「表現の自由」への干渉であり、権力者として絶対に口にしてはならない「レッドカード」ものである。

「税を使わないなら、僕がとやかく言うことではない」と言うのも間違っている。実際は「税を使うから」こそ、「市長の立場」で芸術の内容を批判する事は、公権力による「表現の自由」への干渉であり、厳禁されるのが民主的文化国家の常識である。

作家の有栖川有栖氏は「もし、橋下市長のように『僕の感覚』で文化を取捨選択するなら、大阪ではその基準の文化しか残らない」と述べたと報道されたのは全く当然で、この点に関する限り「橋下市長は独裁的」と非難されてもやむをえない。

橋下市長は更に「1. 技芸員間の収入格差の是正。2. 協会が技芸員のギャラから手数料を取る仕組みを作れ」などと、民間の経営内容に干渉したそうだが、これでは、霞ヶ関の「行政指導」と何ら変わらない。

マスコミには注目されなかったが、橋下市長の文化行政施策で私が最も重要だと思ったのは、「第三者機関(アーツカウンシル)」を導入して補助金分与を含む文化政策を任せると言う提案である。

この提案は、文化行政と公権力の微妙な関係を良く知る橋下市長だからこそ、米国のNEA(National
Endowment for the Arts)を参考に作ったものだとばかり思っていた。

橋下市長の文楽批判に反対した小田嶋氏が、同氏のブログで「芸術とは、金銭的な評価とはまったく関係なく必要な存在である。だから、文楽は特別扱いにするのである 」と断言して評判になったらしい。
小田嶋氏が、もし「アーツカウンシル」の審議委員に選ばれ、「補助金支給」の決定当事者になれば、芸術も「金銭的な評価」や「競争」に晒される現実を知るに違いない。

文化事業といえども、相手が観客争奪であろうと補助金であろうと目に見えない競争にさらされることは当然で、芸術が「金銭的評価」や「競争」とは無縁だと言う論議は、机上の空論である。

この様に、橋下市長の「文化行政方針」の大半を支持する私だが、「文化行政論」と「文化論」を混同して、市長と言う立場で芸術の内容に口を出す事は、如何に正しい「文化行政」を行おうとも,全てを帳消しにする大罪である。

橋下市長は、補助金がらみで発言した一連の「文楽批判」を直ちに訂正し、文楽座に謝罪すべきである。