日本の核燃料サイクルは、風前の灯である。民主党政権が「原発ゼロ」政策で直接処分への転換と高速増殖炉の開発中止を打ち出したことで、六ヶ所村の再処理工場は宙に浮いてしまった。アメリカや地元の抗議を受けた政府は、あわてて現状維持に方針を変更したが、「原発ゼロ」と再処理が相容れないことは自明の理だ。
専門家の中でも、核燃料サイクルに反対する意見は少なくない。その最大の理由は経済性である。かつてウランの埋蔵量は80年ぐらいしかなく、世界各国で原発がつくられると価格が上がり、石油のように供給が不安定になることが心配された。それにそなえて「準国産エネルギー」としてプルトニウムを生産する再処理が選択されたのだが、最近ではウランの可採量は精製技術の向上で900年以上あるといわれ、「シェールガス革命」で原発のコスト優位がなくなったため、ウランの逼迫は大した問題ではなくなった。
本書も高速増殖炉には未来がないと認めているが、再処理には意味があるという。その理由はプルサーマルと核廃棄物のコンパクト化である。このうちプルサーマルに使うMOX燃料は、普通のウラン燃料に比べて、再処理の工程がよけいにかかる分だけ経済的には不利だ。これは再処理でできてしまうプルトニウムを減らすための苦肉の策なので、再処理もプルサーマルもやめたほうが経済的である。
残る最後の理由は、使用ずみ核燃料からプルトニウムを分離してガラス固化することによって、放射能が直接処分に比べて1/8に減ることだ。核廃棄物の体積も減るので、2050年までに必要な中間貯蔵施設は、直接処分だと15ヶ所以上必要だが、再処理すると3ヶ所程度でいいという。今のところ中間貯蔵も最終処分も候補地さえ決まっていない状況を考えると、これは政治的に大きな意味がある。
ただし核燃料サイクルのバックエンドには、19兆円ともいわれる莫大なコストがかかる。再処理工場の固定費の大部分はサンクコストなので考える必要はないが、今後のランニングコストと核廃棄物の処分を容易にするメリットのどちらが大きいかは自明ではない。最終処分だけなら本書も書いているように「核燃料サイクルの国際化」(核廃棄物の海外処分)のほうが割安だ。
実は最大の問題は、本書もふれていない核武装との関係だ。六ヶ所村の再処理工場には、IAEAの査察官が24時間常駐している。日本はその気になればいつでも原爆をつくれる「潜在的核保有国」だからである。再処理によってプルトニウムを生産することは、核武装のオプションを残すためにも必要だという意見もあるが、今ある44tのプルトニウムでも全人類を何回も殺せるので、これ以上プルトニウムを生産する必要はない。
このようにいろいろな面から考えても、核燃料サイクルが必要かどうかは疑問だが、再処理をやめると決めたとしても、撤退には大きなコストがかかる。この問題は費用と便益の比較衡量が必要で「核燃料サイクルをやめるのが正義の味方だ」といった幼稚な議論で片づけるわけには行かない。