日本の労働運動が空虚なワケ --- 城 繁幸

アゴラ

ちょっと前の話だが、郵便ポストにこんなビラが入っていた。

「○○さんを転勤させる会からのお知らせ」

本当は○○には個人名が明記されているが、ここでは仮にA氏としておこう。


なんでも、某大手企業の正社員であるA氏の身内が難病のため、会社に自宅近くの事業所への転勤を10年間要求し続けているのだそうだ。ビラは、氏を支援する労組が配っているらしい。

ただ、同情はするが、会社は慈善事業をやっているわけではないので、従業員の個人事情に配慮する義務はない。
(そもそも筆者は超大手企業の50代正社員が弱者とは思わない)

もちろん配慮する会社もあるが「個人事情が優先する前例を作るわけにはいかない」という判断も管理部門的にはそれ以上に合理的だ。

というわけで、本来であれば転職によって自宅近くの職に就くのが筋だろう。

とはいえ、なにせ日本の労働市場は硬直的なので、ことはそう簡単には進まない。特に、高い年齢給を抱えこんだ50代の氏が、同じような処遇で転職するのはほぼ不可能だろう。だからこそ、氏の会社への請願は10年間も続いているわけだ。

これもまた終身雇用であるがゆえの閉塞感の一つだ。折り返し地点を過ぎてしまった人間は、そこにどんな不都合があったとしても、自らの意思でレールを降りることはとても難しい。

一方、氏を支援する労組も、まさか「労働市場を流動化しろ」なんてことは言えないし言う気も無いだろうから、矛先を企業に向けざるを得ない。哀れな個人を担ぎ上げて、からっぽの洞窟に向かい「転勤させろ」と叫び続けるしかない。もちろん、何年叫び続けたところで、帰ってくるのはこだまだけだ。

いや、ひょっとすると支援する側は、最初から問題の解決なんてどうでもよくて、“アンチビジネス”というスタンスさえ取れればそれで満足なのかもしれない。支援組織に“九条”だの“憲法”だの、雇用とは何の関係もないキーワードが並ぶのを見ると、こうした運動がリアルとかい離している一方で、特定の政治運動とは密接に結びついているのがよく分かる。

終身雇用の生み出す閉塞感の前に呆然と立ち尽くすしかない個人と、終身雇用という既得権を手放せぬまま、あさっての方向に迷走する労働組合。なんてことはない一枚のビラが、日本の労働運動の虚構を見事に暴き出している。


編集部より:この記事は城繁幸氏のブログ「Joe’s Labo」2013年7月31日の記事より転載させていただきました。快く転載を許可してくださった城氏に感謝いたします。
オリジナル原稿を読みたい方はJoe’s Laboをご覧ください。