教育現場でのICT活用 ~ 初等教育の場合

松本 徹三

「デジタル教科書」を巡る議論について書いた先回の記事は、多くの方々に興味を持って貰えたようで大変嬉しいが、具体論に触れる余裕はなかった。先回の記事でも申し上げた事だが、教育現場でのICT技術の活用は、基本的に「道具」の問題であり、その前に「教育の目的」が十分議論されていないと、的外れの議論になってしまう恐れがある。


また、こういう場で教育・訓練の問題を語る時には、国が関与する「公共教育」の問題に集中する必要がある。幸いにして日本は自由な国なので、私的な教育・訓練の場は誰でもが自由に提供出来るし、誰でもが自由にそれを利用出来る。ICTを道具として使うだけでなく、ICT技術の習得を将来の生活の糧を得る為の手段として考えたり、この分野で突出した人間になりたいと考える若い人たちは、当然、当面はこのような私的な教育・訓練の場を使うべきだろう。最近私は、高校生が先生になって小学生や中学生の生徒にスマホ等のアプリの作り方を教えるサマーキャンプの存在を知り、大いに感銘を受けたが、こういった事は別次元の問題として考えたい。

また、「教育の目的」という本質論から議論を進める場合は、「初等教育」「中等教育」「高等教育」に分けて議論しないと、これまた話が混乱してしまう。それ故、今回は先ず「初等教育」に焦点を絞り、「高等教育」については、また別の機会に語りたい。例えば、前回若干触れた「Flipping Method(反転授業)」を初等教育に適用する事などは、多くの方々からもご指摘を受けた様に、日本ではとても無理だろう。しかし、「高等教育」では、これは「当然の事」として定着して然るべきだ。これについてこられないような学生さんたちは、「大学卒」の肩書きを持つに値するとは到底思えないから、大学は卒業証書を出さなければよい。

さて、「公共教育の目標」という事を語るとなると、先ずは今年の6月20日付の私のアゴラの記事を、今一度ご参照頂けると有難い。この記事で私は下記の三つが公共教育の目標であるとした。

1. 全ての国民に、一定の生活水準を維持できるに足るだけの「常識とスキル」を身につけさせる事。
2. 国力(政治、経済、文化、技術、産業などの総合力)を牽引する高い能力を持った人材を発掘し、育成する事。
3. 全ての国民が「民主主義体制の良き構成員」となり得るよう、自国の「歴史」と「現在の法・社会制度」について、正しい認識を持てるようにする事。

そして、この記事では、先ずは第3項目のみに焦点を絞り、歴史教育の重要性を力説するだけに留めた。しかし、今回は、「公共教育」について語るのは同じでも、取り敢えず「初等教育」に焦点を絞る事にするので、当然上記の第1項目が議論の中心となる。また、今回はICT利用の可否と効果(又は逆効果)についての議論が目的故、以下、教科別に、先ずは「国語」「算数」「英語」の三項目に分けて語りたい。

「国語」の教科書は、絵を沢山入れて楽しくなる分だけデジタル教科書のほうが紙の教科書より若干良いだろう。子供たちは日本語を「状況」ごとに耳から覚えているので、教科書は「音」と「状況を示す絵」と「文字」の三点がセットになっているほうが学習効率は良くなるだろう。逆に国語の教科書が「紙」でなければならないという根拠は全く見当たらない。高学年になって長い文章を読む様になっても、これは同じ事だ。紙の本なら出来るが、液晶画面では出来ない事は何も見当たらない。

鉛筆や消しゴムを使って紙の上に文字を書く訓練は勿論必要だし、これに相当の時間をかける事は妥当だと思う。しかし、今でも紙の教科書の上に子供たちが書き込みをする事は奨められてはいないと思うので、教科書がデジタルになっても「文字を書く練習」の妨げになる事はない。逆に、正しい筆順を教えようと思えば、デジタルの教科書のほうが紙の教科書より遥かに有利だ。

問題は「漢字」だ。これについては必ず色々と異論は出てくると思うが、私はここで画期的な新提案をしたい。私の提案は、義務教育である小学校及び中学校で習得すべき漢字を二種類に分ける事だ。第一のグループは「自分で書ける事」を求められる漢字群であり、第二のグループは「読めるだけで良い」漢字群だ。

考えてみると、現在の殆どの大人も、この二つを使い分けているのではないだろうか? 私には現在、自分で書けない(または書けなくなってしまった)漢字が山程あるが、パソコンやスマホを使う時には、普通以上(昔以上)にこのような漢字を使っている。読む時にはそのほうが早く読め、意味も間違え難いからだ。この事を恥ずかしい等とは全く思っていない。

今や文明諸国の殆どの人間がガスコンロやライターを使っており、自分で火をおこせる人は殆どいなくなってしまっているが、それは大きな問題だとは考えられていない。尤も、マッチと紙屑、枯木や薪から火を燃やすぐらいの能力は、キャンプを楽しむ為にも、或いは非常時のサバイバル術としても、一応知っておく事は望ましいが、要するにその程度の事だという認識だ。自分で漢字を書く能力もやがてはこのようなものになるだろうが、少なくともここ10年ぐらいは、400字ぐらいは自分で書ける事が望ましいとされる(そうでないと困る事が多い)だろう。しかし、400字以上は要らないのではないかと思う。

私は、世界で唯一の生き残っている「表意文字」である「漢字」の価値は極めて大きいと思っており、先ずは中国人が、次に「漢字仮名混じり」を、「訓読み」というものまで交えて、平気で使いこなしている日本人が、早く正確に読書が出来るという能力においては、「表音文字」一辺倒の他の民族より比較的優位に立てると思っている。(その意味で、自国で発明された合理的なハングルに対する誇りが非常に強かったが故に、それまで使っていた「漢字ハングル混じり」を捨ててしまった韓国や北朝鮮は、大きな間違いを犯したと思っている。)

しかし、これは、コンピュータ技術が成熟した為に始めて言える事だ。現実に、私が34年間勤めた伊藤忠商事では、二代目の伊藤忠兵衛氏が大変熱心な仮名文字主義者だったので、新入社員は全て「片仮名タイプ」の講習を受けさせられた。忠兵衛氏の考えは、勿論、「これからはコンピュータ時代になるが、漢字ではこれに対応出来ない」という事だったのだが、コンピュータ技術が多くの人たちの想定を遥かに超えるスピードで高度化した為に、既に「殆どストレスなく漢字入力が出来る」時代が到来してしまった。

そうなると、「速読」が出来て意味を取り違える危険の少ない「漢字」を、より多くの人たちが好んで多用する様になり、読み手にとっては、「こういう漢字は書けなくても良いが、読めないとまずい」という時代が近づきつつある様に思える。「読むだけの能力」なら、「書く能力」の十分の一以下の時間で身につけられる筈だから、漢字を二つのカテゴリーに分ける事は大いに意味がある。

次に「算数」である。ここでも国語の場合と一緒で、紙の上に鉛筆で筆算をする訓練は必須ではあるが、教科書自体は「紙」である必要は全くない。それ以上に、初等教育における算数でも、絵で説明する事は、四則計算の本質を理解させる為には大きく役立つだろう。

因に、私が学んだ大阪府立北野高校(たまたま橋下大阪市長の母校でもある)には、佐賀真一先生というチューリッヒ大学で博士号を取った生物の先生がいたが、この先生には、或る時の生物の試験で、突然「長方形の面積を求める方法を述べよ」という問題を出し、「縦かける横」と答えた生徒はみんな0点をつけられたという伝説があった。先ず「面積とは何か」「単位とは何か」という事から論じて、一つの長方形に1センチ四方の小さな箱が幾つ入るかを計算する方法を述べなければ、合格点は貰えなかったと言う。(生物の授業との関連は、「メンデルの法則を説明した時に触れた何かの話に若干の関係があったらしい」という事しか知られていない。)

ICTを使い、紙の代わりに液晶画面を使うと、画面が次々に変わって子供たちに考える暇を与えず、従って「集中してものを考えられる子供たちがいなくなってしまう」という危惧を語る人が多いが、これは奇妙な考えだ。液晶画面は次々に変化させる事も出来るが、「子供たちが十分に考えて一つの結論を出すまでは微動もしない」という様にする事も出来る。目的に応じて如何様にもプログラム出来るのだ。

液晶画面は子供たちに問題を出し、子供たちが自分で考えて答えを出すまで全く動かない。間違った答えが出れば、単純に突き放す。何時までたっても答えに行き着けない子供たちには、或る程度時間が経ったところでやっと助け舟(ヒント)を出す。教室でこれをやった場合、良く出来る子供はどんどん前に進む。先生は何も口を出さないでよい。或る程度時間が経ったら、出来る子供たちと出来ない子供たちを二つクラスに分け、出来なかった子供たちのグループには、ここで初めて先生が丁寧に教え込むようにすればよい。

九九は、勿論、暗唱する事が求められる。そうでないと、現在の社会ではまともに買い物も出来なくなってしまうからだ。しかし、ここでもICTは威力を発揮する。画面には「2x3=」とか「7x5=」とかいう問題だけを映し出す。子供たちが「にさんがろく」とか「しちごさんじゅうご」と言えば、音声認識でこれを聞き取り、「正解」という表示が出て次に進める。正解がでなければ、一回だけ正解を音声で出して、あとは反復練習させる。出来なかった問題だけが何時迄も画面に残される。

最後は「英語」である。「本当に小学校で英語を教える必要があるのかどうか」については色々な意見があろうが、話が長くなるのでこれはまた別の機会に譲るとして、ここでは「どの様に教えるか」という問題のみに絞りたい。

これはもうICTの独壇場であり、「それ以外に方法はない」と言ってさえよいと思う。私は地方都市の或る小学校で英語の授業の手助けをしている私の娘から、数年前に驚天動地の話を聞いた。彼女がアシストした担任の教員は、それまで全く英語に縁がなかったにもかかわらず、突然「英語を教えろ」という難題を突きつけられ、ノイローゼ寸前だったらしいが、何とか気を取り直して、片仮名で各単語に自分で「ふりがな」を付け、それをベースに生徒たちに教えていたと言う。この人には何の罪もないが、これではこんな授業を全く受けなかったほうが、生徒たちにとっては「無害」だっただけ良かったという事になってしまう。

プロが練りに練った英語の視聴覚教材は世界中に山のようにあり、その多くはタブレット対応になっているから、各学校では、生徒たちに単純にそれを学ばせれば良い。先生はタブレットの操作方法を教えたり、子供たちがちゃんと集中しているかどうかを見張ったりしているだけで良い。先生も生徒と一緒に学べば、これを何年も繰り返しているうちに、段々ひとかどの英語教師になっていけるだろう。そうしなければ、小学校で英語を教えられる教員など、とても短期間に養成出来るわけはない。