イケメンじゃないスター=メッシvsイケメンなスター=ネイマール

倉本 圭造

「サッカーという文化とグローバリズム、その中での日本代表だけでなく日本経済の戦い方」というようなテーマでネットに連載をしてるんですけど(第1回第2回第3回第4回)、今回のテーマはちょっとイロモノ的ですが、「スター選手」と「イケメン性」についての分析です。


ところでまず、グループリーグが終わって決勝トーナメントの組み合わせが決まったので、サッカー関連連載(というには色々と広い話を含みすぎですがいちおうは)らしく予想をしてみたいと思います。

トーナメント表と日程については、朝日新聞の特設サイトに詳しいです。

眺めてみると、グループリーグの戦いから考えて、準決勝の時点で、「ブラジルvsドイツ」「オランダvsアルゼンチン」になりそう・・・・それ以外の組み合わせだと「番狂わせ」扱いされる感じではありますが・・・

で、個人的には、「決勝ブラジルvsオランダ」でオランダ勝利、3位決定戦「ドイツvsアルゼンチン」でドイツ勝利・・・を予想してます。

今回の連載の中で触れてきた話で言うと、

第1回第2回で述べたような、「サッカーを俯瞰で分析的に見て、ある意味”野球”のようにプレーする」ドイツ&オランダの北部欧州サッカー

vs

第3回第4回で述べたような「ストリートサッカーの本能からの積みあげ的なプレーをする」ブラジル&アルゼンチンの南米サッカー

の争い・・・と言えるかもしれません。

昨日の晩の「オランダvsメキシコ」は凄い試合で、前半自分たちの普段の形をことごとく潰されて一点負けていたオランダは、物凄く焦りが来るはずの終了直前の時間帯に次々と適宜柔軟に「俯瞰で見た作戦」を変更し、そしてチーム全員がその「作戦変更」に対して「合目的的」に動きを変えて、終了直前に二発決めて勝利・・・っていうのは凄いなあと思いました。(日本代表がズルズルと”同じ攻撃の形”に没頭してしまっていたのとは大きく違う感じで)

「本能的な積み上げ型」でやってると、相手の出方に対してあれほど「俯瞰で見た作戦を意識的に変更し、そしてそれにしたがって全員が合目的的に動く」のは難しいように思います。その点オランダの選手は得点を決めるときも、二次大戦でドイツ軍が物凄く生真面目に絨毯爆撃をしたように、「ヒロイズム的成果」というよりは「ミッションコンプリート」的なプロフェッショナリズムを感じる攻撃で、それはそれで一つの「かっこよさ」を提示しているように思います。

で、そういうドイツ&オランダの「マシーン的」サッカーに対して、ブラジル&アルゼンチンは勝てるのか?と考えると、なんとなく、

今回は「ネイマール率いるブラジル」は「マシーン」に勝てるけど、「メッシ率いるアルゼンチン」は「マシーン」に勝てずに終わるんじゃないか?

っていうような予感があるんですよね。

なぜか?それはネイマールの方がイケメンだから・・・・などというとムチャクチャ言ってるようですが、そういう今回は「スター選手」と「イケメン性」について大真面目に考えてみたいと思っています。(この連載全体の趣旨にとっても結構大事な話なんですよ)

南米・南欧勢のような「本能的な積み上げ型のサッカー」をしていると、ある種の運命的に「スター選手」的な存在が生まれます。

オランダやドイツの選手が、どれだけ凄くてもサッカーファン以外になかなか「顔と名前」が浸透しないのに対して、ブラジルのネイマールとアルゼンチンのメッシのような存在には、「純粋な機能性」を超えた「スター性」が宿る・・・ところがあって、これは非常に不思議な感じがします。たまに本能が暴走しすぎて相手選手に噛み付いてしまって退場どころか数ヶ月プレー禁止・・・っていう選手まで出てきますが。

そういう「スター」的な選手のあり方と、「マシーン」的な選手のあり方については既に述べてきたわけですが、その「スター」の中でも2つの類型として、「イケメンではないスター」=メッシと、「イケメンなスター」=ネイマール・・・という「扱い」の背後にある文化的違いっていうのがあるように思うんですよね。(それが、最終的にこの連載のゴールである日本サッカーと日本経済の今後の勝ち方・・・につながってくるんですよ)

などと書くと、「メッシはイケメンだよ!」「いやいや、ネイマールってイケメンじゃなくね?」という話になってしまうわけですが、これはね、「扱い」の話なんですよ。

そういう意味では、ドイツやオランダにも価値観によってはもっと「イケメン」な選手はいます。好みによります。ただ「扱い」の話なんですよね。なんでこういう「扱い」に差が出てくるんだろう?そしてそれは両選手やその背後にある文化的構造の差異のどういう部分に影響を受けているんでしょうか?

スペイン語圏(スペインと、ブラジル以外の南米・中米諸国)とポルトガル語圏(ポルトガル・ブラジル)には、「個々人の男」に対する社会的文脈によるエンパワーメントの形が大きく違うように私はずっと前から感じているんですよね。

これはおそらく、彼らの歴史の中に染みだしている「イスラム圏だった時代」の影響が色濃く残っているんじゃないかと私は考えているんですが。

その結果として、スペイン語圏から出てくるスターっていうのは、言ってみれば「フーテンの寅さん」型で、「男の集団的願望と共鳴して存在を許されている」感じなんですよね。

一方で、ポルトガル語圏から出てくるスターは、もうちょっと「ジャニーズ・アイドル」的で、「男の集団的願望」的なものが寸断された社会において、女性の願いも大きく入って来た中での社会現象として生まれるスターって感じなんですよ。要するに「イケメン性」が高い。

つい先日までスペインサッカーが世界最強の名を欲しいままにしていた頃、全盛期にはたまに8割に迫るボール支配率で(つまり試合時間中ほとんどずっと自分たちがボールを持っている)、細かいパスをつなぎつなぎしながらゲームを進めていくスタイルだったわけですが、その頃から「ボールがよく収まる」という表現をサッカー解説者がするようになったように思います。

ある選手にボールを預けると、そこでよく「収まる」「落ち着く」という感じ。

確かにスペインチーム全盛期には、一人ひとりがボールを預かった時に凄く「安定感」がありました。

たとえ一瞬しかボールに触らなくても、

「お手前にお預けもうす」
「承りもうした。おまかせあれ。つぎはそなたにお預けもうす」
「お預かりつかまつった。おまかせあれ。」

的な「折り目正しい」感じがあったんですよね。一人ひとりが流動的な状況の中での「仮の存在」扱いではなくて、ある種の「一家の主」的な扱いの文化があった。

つまり、フェミニズムの論客さんが「ホモソーシャル」と呼ぶような男社会の相互擁護メカニズムが確実にあって、チームメイト一人ひとりの「一家を成す権利」的なものを、アプリオリ(生まれつき、生来的に)に認めるような安定感があったんですよ。

そこに俯瞰的な視点での機能性の要求や、男間における「序列性」といった要素が希薄で、一人ひとりの「本能的安定感」が共有されていて、「お互いの領分」に対する尊重意識がある。

そういうところにキッチリ乗っかった形で、「一人ひとりを起点」とする細かいパス回しをするようにすると、「俯瞰で見た作戦」では抽象度が高すぎて対応しきれない・・・という形で勝っていたんですよね。(韓国において財閥系のトップダウンの力でサムスン本体は強くなるが、地道な生産技術蓄積においては、無数の細かい”一国一城のオッサン”たちの存在感がそれぞれバラバラにまとわりついて練磨していく日本の集団の方がまだ強い・・・というような因果関係ですね)

で、そういう「一個一個のイエ」が確実なものとして存在した上で、その世界の「スター」という風になると、ジャニーズ的に「イケメン」というよりは、マラドーナ的な「フーテンの寅さん風男のあこがれ」の投影に近くなってくるんですよ。

だから「男社会」の和を乱す「イケメン性」は薄い。スペイン黄金時代の中心選手だったイニエスタという選手が日本に来た時に山手線に乗っている写真がネットを検索したら出てきますけど、世界最高の天才的サッカー選手なのに山手線に乗ってるのが違和感なさすぎてビビる・・・というぐらいでした。

それに対して新教系の国は「俯瞰で見た作戦」からの「トップダウン的な個の機能性」ベースに動いているわけなんですが、一方でポルトガルやフランス、イタリアといった国とスペイン語圏のサッカーを比べると、彼らは「一人ひとりの男」の「安定性」を「キリストの存在感」によって文化的に削られてるんですよね。

本当の意味で「家の主」であれる存在はキリストだけだ・・・っていう「削り」が効いてくるのがキリスト教の機能そのものだと言っていいぐらいなんですが、その結果として、「一人ひとりの安定性」はスペイン語圏ほどない・・・・が、その結果として、「個々人の安定性の欠如」を象徴的な形での「ジャニーズ的なスター選手」を作り出すことでそれを埋めている・・・感じになることが多い。そういう選手が出て来て「一本化」できたら強くなるが、出てこない年は弱い・・・という感じ。

古い話じゃバッジオとかね。今のクリスチャーノ・ロナウドとかね。”イケメン”といって良いかはわかりませんけどジダンとかね。今回はまさにネイマールがそういう感じで出てきてますよね。

だから、メッシは「男社会」のみんなの願いの具現化・・・という形でガッチリ組み込まれた「フーテンの寅さん型スター」なのに対して、クリスチャーノ・ロナウドやネイマールは「男社会」からは切断された「個」として、男社会から分離した女性の願いも吸い込んで商業的に成立している「社会現象」としての「ジャニーズ的スター」なんですよね。

結果として、マラドーナが1986年の「神の手」大会で、その数年前のイギリスによるフォークランド諸島占領に対する反感なんかもあって「寅さん型スターの暴走」的な形で優勝できたのを最後に、前回のスペイン代表まで「スペイン語圏」はワールドカップで優勝してないんですよね。

コパ・アメリカみたいに「南米スペイン語圏のホモソーシャル的内輪の大会」で強いチームも、ワールドカップ的に全世界的な注視の中の大会じゃなかなか「寅さん型スター」じゃ勝てないでいる。

一方でブラジルはご存知の通り最多優勝記録を持ってますよね・・・南米での大会においてそれほど明確な実力差があるわけでもないのに。

要するにスペイン語圏のサッカーは「内弁慶的」になりがちで、「ウチ」の密度感の中ではどこまでも強く出られるが、「その外側」の要素が絡んでくると力が出しづらくなる構造になっているわけですね。

時代の流れと合致して黄金時代を謳歌したスペイン代表も、今回の大会ではグローバリズムの液状化した世界に飲み込まれてしまって、一人ひとりの選手の「イエ」感が薄くなり、「収まらない」状態のまま最後まで行ってしまいました。

それは昨今の「日本の伝統的大企業」が、「グローバル経済」の中で出遅れがちになっていた・・・というようなのと同種の構造があるからで、だからこそ「その先」へ行くには我々も日本社会の「成り立ち」ごと変えていく必要があるわけです。

もちろん、サッカーってこんな巨視的な話だけじゃなくて何があるかわからないスポーツですし、スペイン語圏から出てきた今大会の新星、コロンビアのハメス・ロドリゲス(彼は超イケメンですけどなんとなく凄く”良い人”そう・・・ジャニーズでもガテン系職人道のTOKIO系みたいな・・・・いやただの印象ですけど)が「スター」として次の試合でネイマール率いるブラジルを敗れるか・・・とかね、色々と不確定要素がいっぱいある話ではあるんですよ。アルゼンチンがオランダを破って決勝がブラジルvsアルゼンチンになったら、それは凄く魅力的な試合になるだろうな、そっちの方がプロレス的には面白い展開だな・・・とかね。

でも、個人的な予想としては、ブラジルはドイツに勝てるが、アルゼンチンはオランダに勝てない結果として決勝ブラジルvsオランダになり、そしてそこで、ブラジル勝ってほしいなあ・・・・でも、「大きな時代の流れ」から考えると、「俯瞰で見た戦略の延長線上に”キャラクター性”をも持ちつつあるオランダ」に負けるんじゃないかな・・・っていうようなことを私は考えています。

そう、ドイツ代表は、サッカーマニアじゃないと名前知らないな・・・覚えられないな・・・って感じではあるんですが、オランダ代表は二人のフォワードがかなり「キャラ立ち」してるんですよね。

「プロフェッショナリズムの延長」としての「キャラクター」が成立しつつある。この連載の第1回第2回で述べた「サッカーの野球化」の流れの中で、日本が今後サッカーにおいても経済においても追求するべき「グローバリズムをさらに進化させて”生身のリアリティ”を繰り込んでゆく方針」における「最新形」に近いところがあるんじゃないかと思っています。

全くの積み上げ型じゃなくて「俯瞰で見た機能性」っていうのを突き詰めて行ったところで「個々人のキャラクター」を丁寧に活かせるようになっていけば、そこに「スター性」に近い「キャラクター性」が生まれてくるはずだ・・・・って感じですか。

第2回で述べた

『打席』を用意してやれる経営

っていうのの極限的な発露の中に、「グローバリズムの最前線に、個々人のダイバシティがちゃんと載せられるようになる」形が生まれてくるはずだ・・・というようなことを彼らのサッカーを見ていて感じます。

ところで、オタクという言葉は、「仲間の男」に対して「お宅ではどうなんですか」と呼びかけることから始まっているそうですが、その「お宅」という言い方の中にある、「相手には相手の”一家”的な独立的存在があるという承認文化」が、昔の日本にはあったんですよね(そしてオタクさんたちはいまだにその時代の文化を生きているんだとも言える)。

つまり日本は明らかに昔は、「スペイン」的な形で、全ての男に生来的な「一家の主」的なものを認める形でやっていたわけですが、それが歴史の流れの中で解体され、スペイン以外の南欧にはとりあえずはある「一神教ベースの個の尊重文化」も無いから行くところまで行っちゃって、

今は「イケてる存在の男」と「イケてない存在の男」を過剰に分断して差異化する形でなんとか「全体の連動性」を保つ文化になってしまっている

んですよね。

結果としてただ生きているだけで色んな怨念をまき散らす状況になっているし、サッカーでも「個の安定性」がなくてどこにもボールの「収めどころ」がない・・・って感じになっちゃってるんですけど。

これから先、日本における「男社会の内輪の擁護システム」はさらに崩壊していくことは避けられないわけですけど、その先に「一部のスターとそれ以外のカス男たち」みたいな扱いの格差付けがさらに暴走するような文化になったら、それは男にとっても女性にとってもかなり暮らしにくい社会になっちゃうんですよね。

女性から見ると、「男」を「超イイ男」と「ダメ男」に分断する方向で過激なことを言えば言うほど自分は「イイ女」的ポジションを簡単に得られるんですけど、それは実は結果としてうまく自分が納得できるカップリングを人生の中で得られない女性が大量生産されるってことでもあるんですよ。

で、本当にそれは「ダメ男」だったのか・・・・みんながうまくその男の魅力を「発揮」できるように持っていってやれさえすれば、「ある女性」にとって「魅力的な伴侶」になりえた「男(の原材料)」だったんじゃないのか・・・っていうところの「社会的配慮を生み出すワザ」は、「男社会」をぶっ壊す爽快感とは別に「用意する周到さ」をみんなで持ちたいものです。

「古い男社会の抑圧を無化する」ためだけの「男社会の無理な格差付け、断絶化」が暴走するようになると、結局「古い男社会」を捨てるわけにもいかなくなるわけですから。「古い男社会の抑圧」を批判するときには、それが担っていた「目配りの力」を何らかの形で補正することがやはり「責任」として必要なわけですね。

「その責任」までちゃんと見ようとしてくれるんだったら、「男社会の抑圧」なんて大抵の男が明日にでも捨ててしまいたいと思ってるんですよ。いやほんとに。

そういうところに、第2回で述べたような、「グローバリズム的な機能性を俯瞰で見て提示する役割」を持っている、経営者・金融関係者・コンサルタント・経営学者・官僚・取引先への権限が多い大企業の社員・・・・のみんなが持っている「権力」が、そこに現地現物に存在している「個」を「単なる部品」としてではない形でちゃんと「取り上げる」ことができる

「場作りの経営文化」

が育ってくれば、日本社会における男性優位も自然な形で無理なく解体できますし、日本代表のサッカーにも、「オランダのような戦略的柔軟性と、ラテン諸国のような本能的細かいパス回し」といった世界の両取り的な独自のスタイルが生まれていくことになるでしょう。

読者のあなたに知っておいてほしいことは、以前「物凄くポリティカルな(意識の高い)アメリカ人青年との対話」という連載で(第1回第2回第3回)で述べたような「現代社会の根本問題」がここにはあるってことなんですよ。

女性の皆さんが日本の男社会の「閉鎖性」に対して「本当に嫌なこと」があるんだったらどんどん糾弾してくれていいし、辞めていけばいいんですよね。

ただ、現状その「内輪の守りあい」の中には、つい先日までのスペインサッカーの独自性を支えていたような、そして日本の製造業の集合体が持っている密度感ある技術蓄積を支えているような、「本質的機能」があるんだってことをご理解いただいて、ただ「前時代性を攻撃」するだけじゃなくてその本質的機能を「代替するための新しい独自の文化」形成に、むしろみんなで力を入れるべきだと私は思っています。

「一方向的に単純化しないダイバシティの保存」が「場作り的経営の文化」によって「グローバリズムの延長」として成立するようになれば、「日本の男社会の前時代的な部分」は「みんなの総意」としてスムーズにゴミ箱に捨てることができるようになるわけです

「前時代性」を攻撃した結果が「ほんの一部の人間しか幸せになれない世界」だったら、結局「その改革」自体も本当には実現しないってことなんですよね。

結局グローバリズムが各地でテロや集団犯罪や治安の混乱や貧困を生み出してしまうのは、実は「俯瞰的で抽象度の高すぎる組織運営」が「本来そこにある生身のダイバシティ」のうちほんの一部しか吸い上げられなくなってしまう結果・・・なんで、「政治」レベルで押し合いへし合いしてるだけじゃどこにも希望がない世界になるんですよ。

「グローバリズム的な俯瞰で見た機能性」と、「生身のキャラクター性」をちゃんと接続できる「場づくりレベルの経営」が文化として成立すれば、この世界にある「矛盾」の根っこの部分から枯らせるわけですからね。この連載で何回も繰り返しているように、「それを日本がやらなくちゃ!」なんですよ。

経済のダイナミズムがもたらす貧富の格差が多少はあっても、「モテの格差」がある程度安定的に解消されていれば、それなりにみんな幸せに暮らせますからね。

そしたらやっと、女性対する暴言をコリもせず吐き続ける下品な保守党政治家なんかは、広い範囲の「男の総意」として「あんなヤツはカスだよね」って抹殺することが可能になるわけです。

そういう意味でも、過去4年間の世界のサッカー界がスペインサッカーを徹底的に研究し、模倣し、地形をポリゴンに取り込んでゲーム世界に再構築するように新教的な俯瞰的戦術の中に入れ込んで来たようなプロセスが、「優勝国」のサッカー文化を起点にこれから4年間世界中で続くことになるわけですから、ジャニーズ型イケメンスター・ネイマールはスペイン的「寅さん」たちが率いる南米諸国のライバルを抑え、北部ヨーロッパ諸国のサッカーを抑え、開催国を優勝に導けるか?は実に注目に値しますね!

この連載はまだ続きます。次回は今大会で突然サッカーに目覚めつつあるというアメリカの話。それはどういう背景の結果なのかとか、実は既に”アメフトのサッカー化”的な流れがあったりするんじゃないかとか、そういう話をします。そしてその次の回で、いよいよそうまとめ的な「サッカー日本代表の今後と日本経済の未来」の話が、ワールドカップが終わるころにできれば良いなと思っています。

投稿は不定期なので、更新情報は、ツイッターをフォローいただくか、ブログのトップページを時々チェックしていただければと思います。

ちなみに、この話はすでに私の著書「21世紀の薩長同盟を結べ」の中で1章を割いて詳述したものを、今回のワールドカップの話題を織り交ぜながら書きなおしていく試みなので、ご興味があればそちらをお読みいただければと思います。(この記事における”両者”の存在を幕末の薩摩藩と長州藩の連携に例えて、その性格や考え方が大きく違う2つの勢力の間の”薩長同盟”の成立が、現代の日本においてもあたらしい持続的な発展への鍵となる・・・という趣旨の本です)

倉本圭造
経営コンサルタント・経済思想家
公式ウェブサイト→http://www.how-to-beat-the-usa.com/
ツイッター→@keizokuramoto

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