消費はモノを買うことだときめつける時代錯誤

大西 宏

山田孝男という方は、毎日新聞の宝だそうです。毎日新聞の「風知草」というコラムを書いていらっしゃいます。
山田孝男記者は毎日新聞の「宝」彼は「新聞コラム」を変えた!
しかし、時代の変化に鈍感なのか、見つめようとするエネルギーを失ってしまったのか、ずいぶん錆びついたことを書くものだと感じるコラムがありました。タイトルが「これ以上、何を買う?」ですが、現代における「消費」がなにかをご理解しておられないようなのです。
風知草:これ以上、何を買う?=山田孝男 – 毎日新聞


普段は目に通すことのないこのコラムを知ったのは、「酔っ払いのうわごと」さんのブログで、このコラムへの反論として、「買物は楽しい。それが一時の錯覚であったとしても」という記事に目が止まったからです。
買物は楽しい。それが一時の錯覚であったとしても – 酔っ払いのうわごと

この風知草の大上段に構えた冒頭を引用してみましょう。

 エコノミストは、消費社会を揺るがす新しい底流を見落としている。

 消費税が上がったので消費が減り、国内総生産(GDP)が落ちた。

 消費減退が一時的なものか、長引くか、議論が続くが、「人間、カネがあればモノを買う」という前提を疑う者は少ない。

 だが、それは、発展途上の時代の固定観念にすぎない。成熟経済の下では、人々はカネがあるからモノを買うとは限らない。モノの過剰は幸福どころか、苦痛をもたらす--という理解が広がっている。

つまりこのコラムの筆者は、
消費とは「モノを買うこと」だ
と決め付けているのです。

一見、そういえば最近買いたいものがないなと感じて、このトリックにひっかかってしまう人もいるかもしれませんが、わかりやすい例として二人世帯の通信料の支出金額の推移の総務省資料のグラフをご覧ください。増え続けています。増え続けてきた最大の原因は、移動電話通信料です。
そうです。携帯電話の普及、さらにスマートフォンの普及が、「いつでもつながる」を実現し、生活を、いや社会まで変えてきたからです。
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増え続ける移動電話通信料

では、通信料はモノなのでしょうか。もちろん、「つながる」ためにはモノとしての機器が必要です、機器には、ブランドとか、使いやすさとか、あるいはデザインにはこだわるでしょうし、電波の品質にもこだわるでしょうが、よほどの機器フェチでもないかぎり、「モノ」としての機器を買うこと自体が目的ではありません。
電波がモノなのかも疑問ですが、「モノ」や「電波」は「つながる」生活を手に入れるための手段でしかありません。

そしてソーシャルゲームの市場が伸びてきました。ソーシャルゲームのビジネスを支えているのはアイテムを手に入れることへの課金が一般的です。ではソーシャルゲームのアイテムは「モノ」なのでしょうか。ディスプレイ上では「モノ」みたいに見えますが、実態は、記号の塊でしかありません。

大阪のUSJはハリーポッター効果で大賑わいです。入場料収入が伸びたというだけでなくグッズも売れ行きがいいといいます。ではそのグッズは実生活を支える必需品として買われる消費だったのでしょうか。違うはずです。楽しかった体験の思い出を購入したのです。モノに目には見えないそれぞれの人の思いが宿ってはじめて消費という行動が生まれたのです。
USJ:ハリポタ効果で千客万来…8月は過去最高更新へ – 毎日新聞

確かに山田孝男さんが書かれているように、必需的なモノということでは、もうあり余り、溢れていています。安いものでも十分に役に立ちます。だから100円ショップにお客さんが流れます。100円ショップといえば、ふだんは、あまり使わないピザカッターですが、なんと100円ショップで売られていて、思わず買ってしまいました。それだけモノの市場は成熟してしまったのです。

欧米の先進国も「モノ」があり余り、溢れていることは日本と変わりありません。だから値崩れは日本以上に激しい国が多いのです。しかしGDPは伸びてきました。
GDPが伸びなくなったのは日本ぐらいだというのを山田孝男さんは、どう説明されるのでしょうか。

海外の先進国のGDPを伸ばしてきたのは、モノの消費というよりは、サービスの消費です。

達観して、地球の未来は欲望の制御にかかっており、まるで第二次大戦当時のように欲しがらないことを美徳とし、経済を成長させることはやめたほうがいいというのも勝手ですが、それでは日本の社会は維持が困難となり、日本がもっと貧しくなっていくことは目に見えています。

いや世界にはまだまだ実現できていない社会ニーズはいくらでもあります。未曾有の高齢化社会の到来とどううまく付き合うのかという課題も残されています。経済の活力が失われれば、そういった課題に、手は打てなくなるのです。

社会が、また人びとがなにを求めているのか、その本質を見据え、モノを超えた価値を、モノとサービスを組み合わせて生み出せる力をどれだけ生み出せるのかに日本の将来はかかっているに違いありません。

もうすでに十分楽しんだから、もう欲望を持つことは、お終いにしようと囁くことは、表面的には賢者の言葉のようにも見えますが、社会に対して、また将来世代に対して無責任じゃないかと感じます。「酔っ払いのうわごと」さんもそれに反発を感じられたのでしょう。