朝日新聞が逆に入れた「システム1」のスイッチ

2014年08月19日 15:57

朝日の慰安婦報道と原発報道がよく似ているのは偶然ではない。どちらも大きな失敗の経験――丸山眞男のいう悔恨――から出発しているからだ。戦争に負けたとき、朝日は自分の罪が追及されるのを恐れて絶対平和主義に転向し、3・11のあと原発推進派だった責任の追及を恐れて「原発ゼロ」に舵を切った。その論理は単純である。

  • 戦争が起ったのは軍隊があったからだ→軍隊をなくそう

  • 原発事故が起ったのは原発があったからだ→原発をなくそう


こういう短絡的な話はわかりやすく、大きな悲劇のあとでは日本人の心情倫理にアピールした。これが「戦後リベラル」の原点だったが、丸山も反省したように、悔恨にもとづく心情倫理は、結果的には何も具体的な政策を生み出さなかった。彼は憲法の平和主義を次のように嘲笑している。

第九条の理想としての平和主義を堅持するという主張によって、なにが否定されているのか。「戦争主義」が否定されているのか。そうだとすれば、およそ戦争主義、あるいは軍国主義を理想として憲法に掲げる国家というのは、現実にもなかったし、今後は一層考えられません。(「憲法第九条をめぐる若干の考察」)

政治学の世界でpacifismというのは、「一方的な無抵抗主義」という蔑称である。それは吉田茂にとっては軍国主義のイメージをぬぐい去るための一時的な方便であり、丸山にとっては知識人の悔恨の表明にすぎなかった。

しかしこの心情倫理が、日本人の心に根を張った。それはカーネマンの言葉でいえば、日本人に広く共有されるシステム1のスイッチを入れたのだ。宗教的に決まる倫理基準をもたず、「キヨキココロかキタナキココロか」を基準にして行動を評価する日本人にとって、軍隊を捨てて「人を殺さない」という動機は無条件にいいことだった。それによって自分が殺されるという結果は考えない。

私がテレビの討論で、福島みずほ氏に「1mSvまで除染しろといっている限り、被災者は帰宅できないが、あなたはそれでいいのか」と質問すると、彼女は目をそらして黙ってしまった。おそらく慰安婦についても同じだろう。彼女の心情倫理は、結果に対する責任倫理を拒否することによってしか成り立たないからだ。

このような責任倫理の欠如を丸山は強く批判した。彼は国家とは暴力の独占であるというトロツキーやウェーバーの規定を肯定し、政治に文化的価値を見出さなかった。国家のもちいる暴力や強制などの手段は、ほんらい倫理的ではありえない。すべての「強制」を否定する吉見義明氏は、泥棒も殺人も自由なアナーキズムの国に住むしかない。

だから手段の倫理性を追求してキヨキココロを追求するリベラルは、汚れ役を引き受けて利害調整に徹する自民党に永遠に勝てない。「国民のいやがることをするのが自民党の仕事」という竹下登の名言は、日本的な責任倫理ともいえよう。

こういう日本的な心情倫理と責任倫理の対立が、戦後の政治のほとんどすべてであり、そこには政策の対立軸は何もなかった。戦後70年もこういう不毛な論争が続いてきたことは、朝日新聞や福島氏だけの責任ではない。彼らがここまで生き延びたのは、日本人の中にそういう心情倫理に反応する「古層」が共有されているからだろう。

今回の慰安婦騒動は、朝日が(誤って)システム1のスイッチを逆に入れた珍しいケースだ。嘘をいったん認めると、半分で幕を引くことはできない。「嘘つきはキタナキココロだ」というスイッチが入り、他の話もすべて信用されなくなる。嘘を書く新聞というのは、毒の入っている食品と同じだ。不二家も赤福も社長が辞任し、雪印とミートホープは会社が消滅した。

朝日が慰安婦の記事をすべて取り消し、社長が辞任するまで、ネット上の批判も自民党の攻撃も止まらないだろう。今回の訂正記事のきっかけは販売会社からのクレームだったらしいが、中途半端に訂正して開き直っているとさらに部数が激減し、雪印や毎日新聞のような運命が待っている。

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池田 信夫
アゴラ研究所所長 青山学院大学非常勤講師 学術博士(慶應義塾大学)

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