市場取引とモラル --- 森 宏一郎

アゴラ

15年超にわたって続き人気を博してきたイギリスのファンタジー小説がある。この小説をテーマとした遊園地がある。私の友人はそこへ行きたいらしいのだが、非常に人気が高く、3時間ぐらいは待ち行列に並ばないといけないということで尻込みしている。

もう新しい話ではないが、その遊園地には追加料金を払うと待ち行列に割り込むことが可能となるチケットが販売されている。アメリカでは当たり前のような話ではあるが、日本にある遊園地でも、この仕組みがあることにはやはり驚きがある。

この仕組みは日本には馴染まないようにも感じる。この仕組みに対する違和感はどこからくるのだろうか。


◆市場取引における道徳的な限界

財・サービスを供給する人と需要する人の間で取引が成立すれば、それは市場取引であり、市場が成立する。供給者が考える財・サービスの価値よりも高い価値をつける需要者が存在して、かつ、需要者に支払能力があるとき、彼らが出会いさえすれば市場取引が生まれる。

自由な市場取引の背後には、個人の自由な選択という大義名分がある。さらに、最も高い価値をつける需要者によって消費されるという効率的な配分の実現ということによって、自由な市場取引は支持される。

この観点からすれば、遊園地と需要者の間で待ち行列に割り込む権利を売買することは単純な経済取引であり、そこには問題はなく、むしろ望ましい姿であるということになりそうである。

しかし、話はそれほど単純ではない。自由な市場取引を通じた配分の結果は効率的であっても、公平な分配になっているかどうかはわからない。公平性についての議論をするとき、少なくとも支払意志額と支払能力を区別した議論が必要なのではないか。

財・サービスに対する価値づけは支払意志額と結びつく。しかし、実際には、支払意志額ではなく、支払能力によって配分が決まる。結局、支払能力のある人だけがアクセスできるということになり、社会として、ある財・サービスに関してそのような分配パターンを容認できるかどうかということが問題として残る。

マイケル・サンデルは市場に対する異論を2点指摘している(注1)。1つは公正の議論である。上記のように、裕福ではない人が市場から締め出される点と貧困にあえぐ人が非自発的に自らの臓器を売るような場合などを回避すべきだという。

もう1つは腐敗の議論である。お金で売買してしまうと社会的規範が失われるというタイプの問題である。弁護士による貧困層へのボランティア的な法律サービスは、無料でお願いする場合は善意として成立するが、市場価格から見て安い価格でお願いする場合には成立しなくなってしまう(注2)。

たしかに、遊園地で待ち行列に割り込む権利を売買することには、公正の問題がありそうだ。問題がより大きそうに見えるのは、待ち行列にきちんと順番に並ぶという社会的道徳による行動規範が腐敗することだろう。これからは「時間もお金で買えるんだよ」と子どもに教育すべきなのだろうか。

◆モラルだけではなく外部コストの問題

モラルの問題だけではなく、待ち行列に割り込む権利の売買には外部コストの問題がある。このことに対する方が、違和感が大きい。

ここでの文脈に合わせて、外部コストを説明しよう。遊園地と支払能力がある人との間で待ち行列に割り込む権利の市場取引が成立すると、この市場取引には含まれていない他の行列に並んでいる人たちの待ち時間が長くなるというコストのことである。

この市場取引がおこなわれるとき、行列に並んでいる他の人たちの外部コストについては全く考慮されていない。実は、外部コストが存在するとき、自由な市場取引による配分は効率的でもない。外部コストを考慮すると、全体としての純便益が必ずしも最大化されていないからである。これで自由な市場取引の大義名分は失われた。

さらに、遊園地と裕福な人の取引は彼らの満足度を高めることにだけ集中しており、その取引によってコストを被る人たちに対する補償の議論をまったくしていないという点で不公平であり、社会的に納得できるようなものではない。

◆医療で待ち行列に割り込む

上記は遊園地で待ち行列へ割り込む権利の売買の話であり、遊園地というサービス消費は贅沢財に該当するだろうから、事態はそれほど深刻ではないという見方もできるかもしれない。しかし、これが医療サービスの話だとしたら、どのように感じるだろうか。

つまり、医療機関において、外来での診察待ち、手術待ち、入院待ちが起きているときに、より多くのお金を支払えば、待ち行列に割り込むことができて、優先的に医療サービスを受けられるという仕組みは、社会的に容認できるのだろうか。

裕福でない人はなかなか医療サービスを受けることができなくなるという点で公正の問題があるだろう。このことは場合によっては、命に値段をつけるという議論にも結びつく。さらに、裕福かどうかとは無関係に人の命は同等に大切であるという社会的道徳規範が腐敗することにもなる。

そして何より、医療機関と裕福な人の間での待ち行列に割り込む権利の市場取引は、この取引に含まれない他の待っている人の重大なコストになる。この不公平性には、とても目をつぶることはできないだろう。

◆おわりに

今のところ日本では医療サービスについて、このような仕組みにはなっていない。だが、市場主義が医療サービスに大いに入り込んでいるような経済では、これに近い仕組みになっているところもある。

遊園地での待ち行列へ割り込む権利の市場取引を日本に持ち込んだのは、市場主義が医療サービスにも入り込んでいる経済に拠点を置く企業である。

遊園地での話ならばたいした問題ではないように見えるが、このことを通じて、「お金を払えば並ぶ必要などない」や「時間もお金で買える」という考えが「待ち行列にはきちんと順番に並ぶ」という社会規範に取って代わるのではないかという心配はある。

一度、社会規範が腐敗すれば、どの分野でも市場主義の言いなりということになりはしないだろうか。


注1:マイケル・サンデル(2012)『それをお金で買いますか─市場主義の限界』鬼澤忍・訳,早川書房を参照。
注2:市場規範と社会規範に関する議論については、ダン・アリエリー(2008)『予想どおりに不合理─行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」』熊谷淳子(訳),早川書房を参照。

森 宏一郎
滋賀大学国際センター准教授


編集部より:この記事は「先見創意の会」2013年10月15日のブログより転載させていただきました。快く転載を許可してくださった先見創意の会様に感謝いたします。オリジナル原稿を読みたい方は先見創意の会コラムをご覧ください。