明治38年5月23日の密封命令ー捏造された日本のリーダーシップ像

2015年03月13日 05:18

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司馬遼太郎さんの発見者であった海音寺潮五郎さん(昭和52年歿)は私の大好きな作家の一人で、いまでも「武将列伝」とか「悪人列伝」など、同氏の史伝をことあるごとに読み返しています。


この海音寺潮五郎さんの唯一(?)のファンサイトではないかと思うのですが、「海音寺潮五郎 私設情報局 ~ 塵壺(ちりつぼ)」というサイトを運営されておられる方がおられます。そのブログに「海音寺潮五郎記念館誌」のバックナンバーをアップされるなど、地道な活動をされていますが、最近では文藝春秋社で海音寺作品が復刊するなどしていますので、それなりの成果を収めていると言っていいのではないかと思います。

先日、このブログにアップロードされた記念館誌の第27号(2007年4月22日発行)を斜め読みしていたのですが、そこに掲載されていた海音寺氏没後三十年記念講演で話された半藤一利さんの講演録が面白かったので、この場を借りてご紹介させていただこうと思いました。

「歴史と人間ー昭和史に即してー」と題された講演は、いわゆる「日本におけるリーダーシップ論」ともいうべきものですが、半藤氏はこれを日露戦争の故事を下敷きに語り起こされています。

世間では日露戦役における陸軍総司令官の大山巌元帥も、連合艦隊司令長官の東郷平八郎大将も、戦地にあって泰然自若、寡黙にして沈着冷静であったといわれていますが、実はそうではなかったというのが半藤氏の指摘です。

大山元帥は維新当時は頭脳明晰の俊英として知られ、日露戦争時も総参謀長の児玉源太郎大将が旅順攻略に手間取る乃木第三軍に出張督戦した折には自ら参謀会議を主宰し、連隊規模の作戦も自ら指揮をとるほど神経の細かい人であったとのこと。その人口に膾炙した茫洋とした人柄は、元帥自らが演出したイメージだったようです。

東郷大将に関しては半藤氏はかなり切り込んだ解説をしています。司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」などでは、ヴラディヴォストークを目指すバルチック艦隊が対馬海峡を通るか、津軽海峡を通るか、はたまた宗谷海峡を通るかと参謀達が喧々諤々の議論を交わすところに東郷大将が満幅の自信をもって海図上の対馬海峡を指差し、「ここに来るでごわす。大丈夫。バルチック艦隊はここに来るでごわす。」と言って周囲を落ちつかせたという話になっています。

ところが、これは戦争後に刊行・公開された「明治三十七八年海戦史」にある記述に基づいたもので、事実は違ったというのが半藤氏の発見です。

海軍は公開された公刊戦史とは別に、「極秘明治三十七八年海戦史」という150巻にもなる資料を作成し、こちらには赤裸々に当時の状況を記録したとのこと。公開されたものとは違い「極秘」ですから、こちらは三部しか作成されず、海軍大学校、軍令部のそれぞれが一部づつ保管し、最後の一部は宮中に保管されました。海軍大学校と軍令部のそれは敗戦に際して重要機密の一つとして焼却されてしまったらしいのですが、宮中に保管されていたものが残っていて、これが昭和天皇御崩御の直前に防衛研究所に下賜され、半藤氏はこれを閲覧したわけです。

こちらの極秘資料によると、朝鮮半島南端の鎮海湾に待機していた連合艦隊のトップはバルチック艦隊の進路をめぐってまさに気が狂わんばかりに迷っていた。そして東郷大将も沈着冷静、泰然自若とはほど遠かったようなのです。

バルチック艦隊は明治38年5月14日にベトナム、カムラン湾で最後の整備・補給を行い出港。以後5月19日に台湾南端とフィリピン・ルソン島の間、バシー海峡を通過したところまでは、日本側も彼らの現在位置を把握していましたが、以降見失ってしまいます。連合艦隊の参謀達はバルチック艦隊を構成する艦艇の性能から艦隊巡航速度を10ノットと想定し、対馬海峡到達を5月21日から23日までの間と予想します。

ところが21日になっても22日なってもバルチック艦隊は来ない。東シナ海一面に73隻の監視艇を展開しているのにどこにもひっかからない。23日もなにごともなく暮れて、これは太平洋側を北進したのではないかという見方が有力になり、すぐに抜錨して北海道、すくなくとも能登半島沖まで北上すべきだという意見が大勢を占めるようになります。

そこで東郷大将は23日夜付で密封命令を出します。ようするに艦隊北上の命令を封筒に入れ、「明後日、5月25日午後3時、封筒を開けよ。」、つまり25日午後3時までにバルチック艦隊発見の報がなければ、連合艦隊は北上するということになりました。

北上するということはそれだけバルチック艦隊の目的地であるヴラディヴォストークに近くなるということで、たとえ海戦にもちこんでもヴラディヴォストークの港に逃げ込まれる可能性が高くなり、日本海の制海権を確立するためにバルチック艦隊を殲滅するという作戦に齟齬が生じてきます。

しかしバルチック艦隊そのものが発見できないのでは、背に腹はかえられない。

この緊迫した状況の中、第二艦隊参謀長の藤井較一大佐が対馬説を頑として主張し、藤井大佐と海軍兵学校同期の連合艦隊参謀長の加藤友三郎少将、そしてもう一人同期の第二戦隊司令官の島村速雄少将が25日午前に行われた会議で対馬説に同調し、結局東郷大将は密封命令の開封を一日遅らせる決断をします。

結論をいえばこの一日延期の「賭け」が大当たりし、翌26日未明に駐上海の同盟国イギリス領事や日本側スパイから「ロシアの補給船、25日夕方上海入港」の知らせが入り、バルチック艦隊がまだ東シナ海をウロウロしていたことがわかり、翌27日深夜に哨戒艇「信濃丸」から敵艦隊発見の入電、同日6時21分「敵艦隊見ユトノ警報ニ接シ聯合艦隊ハ直チニ出動、コレヲ撃滅セントス。本日天気晴朗ナレドモ浪高シ。」の段になるわけです。

いったいなぜ日本の軍部、特に海軍の上層部はこのような事実関係を公開資料においてはキレイゴトで上塗りしてしまったのでしょうか。

半藤氏は、直接的には戦後の論功行賞に影響が及ぶことを恐れたのではないかと推察しています。またその一方で、このようなキレイゴトで事実をごまかしてしまったため、日本においては地に足のついた健全なリーダーシップ論が発展しなかったと指摘します。

泰然自若、動かざること山の如し、などといったような講談まがいのリーダー像が一人歩きする一方で、東郷大将は神格化されてしまいます。陸軍が乃木神社を建立したことに対抗して、海軍も東郷神社を建立する予定であることを聞いて、本人は「やめてほしい」と抗議したものの、結局昭和の世になってから東郷神社が建立されてしまいます。また生前から海軍内では「神様」扱いされ、その言動が軍政への干渉となることに後進は困惑していたようです。井上成美大将も「東郷さんが平時に口出しすると、いつもよくないことが起きた。人間を神様にしてはいけません。神様は批判できませんからね」と言っていたと伝えられています。

一方で日本陸海軍における教育は優秀な参謀を育成することにその精力が傾けられ、その上に立つべきリーダー像に関しては「威徳」という理想が語られるだけで具体的な考察がなされませんでした。

結局のところ旧日本軍におけるリーダーシップのありかたは、天皇制などと同様、日本社会における「頂点・中心の空白」と同じレベルの幻想となってしまい、毎回繰り返される「部分最適・全体崩壊」、「決断と責任の所在の曖昧」といった日本的社会制度の宿痾におちいってしまったといえるでしょう。

最後になりますが、このテーマは半藤氏の自家薬籠中のものであったようで、上記の講演会のほかにも、学士会の講演(平成15年5月20日)でも話されています。こちらのほうが内容が詳細になっていますので、こちらにリンクを貼っておきます。

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