歴史認識問題はプライドとカネの二点から根本解決を

安部首相の米議会演説などの影響か、自民党の若手議員有志が、「歴史修正主義的な過剰なナショナリズムを排し、保守の王道を歩む」勉強会を始めたそうで、そういう動きを巻き込んで、国際的に受け入れられやすく、かつ、多くの日本人の自然な感情としても「受け入れられやすい」着地点を模索する動きは今後出てきそうです。

そして、「あまりにも歴史修正主義的すぎる」要素を安倍政権が減らしていくことは、「ちょっと一緒にされたくない」的な意味で安倍政権の支持者の多くにとっても「願ったり」であることは間違いありません。

しかし、そのためには、「彼らがやりすぎてしまう事情」を理解して包含していくことが必要で、それは「安倍政権は21世紀の尊王攘夷運動みたいなものだ」という理解が重要だという過去2回にわたってしてきました。

アゴラでは分割掲載していてこれは3つめなので、最初から読みたいかたはこちらからどうぞ。

この連作のメッセージを一枚絵にまとめると、以下のようになります。(クリックで拡大します)

150407_右翼さんとナウシカ


では三回目の今回は、「”尊王攘夷運動”がどうして必要とされているのか」について、2つの視点から述べます。

1つは、「何が正義なのか」というような大上段な議論についてです。

そもそも、この問題は、まず欧米人がその前の帝国主義時代にムチャクチャやり始めたという問題がある。それに対抗するために日本は相当に「無理」をした部分があって、その「無理」の結果守られた価値だって当然ある。もちろん、その「無理」の延長で色んな「被害」も出た。

そこの「功績」は完全否定された上で「巻き添えになった被害」の責任は100%取れと言われても納得できないよね、という不公平感があるわけですよね。で、言論の自由が保たれている空間で、「そもそもアンフェアなこと」を国論として完全に安定的に採用するなどというのはそもそも不可能です。

この問題は、「3割のそもそもの欧米の罪と、残り7割の日本の罪」を、全部日本に載せているから紛糾するわけです。「3割の欧米側の罪」の裏返しとしての日本の(あるいは”非欧米国の”と一般化してもいい)「功績」の部分をちゃんとフェアに理解できるようになれば、「残り7割の罪」を否定したいという気持ち自体が根治していくわけですね。

そして、日中韓の間の相互理解も、この「3割の欧米の罪」の部分に対する違和感は実はあらゆる東アジア人の(特に多くの男)の中には渦巻いているので、その「3割」の部分での共感関係を基調としていって、それぞれの国の共同体の「免疫力」を危機にさらさない形に持っていけるならば、「悲しきAsian boysの共感関係」を直につないで行くことによって相互理解が確立するし、同時に日本の右翼さんも「あったことまでなかったことにする」必要性も感じなくなるでしょう。(感情的問題が先に解決すれば、”なかったことまであったことにする”議論もいずれ落ち着いていくでしょう)

そういう方向性について、より詳しくは、「日中韓が心の底から仲良くなる方法」という記事をご参照ください。

もう1つの「尊王攘夷運動の必要性」の話は、実際に日本の組織のユニークネスとその結果としての「優秀性」を保つには、「単純なグローバリズムの延長」だけでそれ以外を焼き払ってしまうような時代の中では何らかの「免疫メカニズム」が必要だという実質的な事情です。

もし「免疫力」が崩壊して、なんか日本が「一部の超絶金持ちと、それ以外のほんと果てしない絶望的スラム街」みたいな世界になったら、そりゃ良くないですよね。

こうやって並べてみると、”そうならないため”なら、多少の歴史修正主義発言の罪ぐらい軽いだろう・・・という「物事の軽重の感覚」の人も多くいると思います。

で、何度も言いますが、「だからといって何を言っても許されるべき」という話ではないということです。

「ダメなものはダメ」という断固とした姿勢と、「その姿勢が取りこぼしている問題への目配り」を両輪としてやらないと解決するはずないよね、という話なわけですね。

ちょっとだけいつもやってる自己紹介をすると、私は大学卒業後、マッキンゼーというアメリカのコンサルティング会社に入ったのですが、その「グローバリズム風に啓蒙的過ぎる仕切り方」と「”右傾化”といったような単語で一概に否定されてしまうような人々の感情」との間のギャップをなんとかしないといけないという思いから、「その両者をシナジーする一貫した戦略」について一貫して模索を続けてきました。

そのプロセスの中では、その「野蛮さ」の中にも実際に入って行かねばならないという思いから、物凄くブラックかつ、詐欺一歩手前の浄水器の訪問販売会社に潜入していたこともありますし、物流倉庫の肉体労働をしていたこともありますし、ホストクラブや、時には新興宗教団体に潜入してフィールドワークをしていたこともあります。(なんでそんなアホなことをしようとしたのかは話すと長くなるので詳細はコチラをどうぞ。)

で、その経験から言うんですが、「普通の国ならスラム街になってもオカシクない」ような領域にいる「職場」でも、ちょっと変な言い方ですが「職業意識」はめちゃ高いんですよ。

「そこにあるもの」と、そこから広がって震災時にも崩壊しない治安とか、日本におけるトヨタや精密機械産業の優秀性といった世界は「地続き」につながっている。「それを失って」しまったらもうそれは日本とは言えないような「何か」がそこにある。

で、恵まれた育ちの人から見ると、そういう「日本人のユニークネス」的なものは放っておいても未来永劫タダで手に入ると思ってしまいがちなんですが、そんなことはないですからね!

むしろ社会の片隅で生きている色んな日本人の地道な「今の時代決してかえりみられない貢献」が積み重なってギリギリ紙一重で維持している何かがある。のに、「欧米由来の論理」だけではそこは攻撃され続け、誰も擁護してくれないという孤立無援の状態におかれている。

だからこそ、「欧米由来のグローバルシステム」の延長として「日本の強み」を位置づける取り組みが必要なんですよね。

「欧米的論理で日本の現場的なものを絨毯爆撃的に焼き払ってしまいつつ全然その自覚がなく正義の使者だと思っている」というようなものでもなく、だからといって「日本だけで通用する内輪の論理」に引きこもって全てを拒否し、国際的に受け入れづらい言説をまき散らすだけに終わってしまうのでもなくね。

その動きが活発になることで、徐々に「尊王攘夷運動」は不要となってあたらしい「開国政府」ができあがる情勢が生まれてくるでしょう。

そういう現実的な方策については、前回大塚家具の騒動について書いた記事、

keizokuramoto.hatenablog.com

をお読みいただければと思います。(そこそこ好評で、大塚久美子社長ご本人にもツイッターでお気に入りに登録していただきました)

今回の記事で述べたような根本的な解決プロセスは、結果として「欧米社会的システム」と「それ以外」が、イスラム国のような部分で大きな問題を巻き起こしている時に、「人類最先端のチャレンジ」となるでしょう。

欧米社会が生み出したものの不完全性をちゃんと認めつつ、しかしそれをイスラム国みたいに全否定しないでちゃんと引き受けて、「現地現物的事情」をうまく吸い上げるように持っていってやる。

そのことで、「完全じゃないのはわかってるけどもうこのまま押し出すしかない欧米社会」にも、それに虐げられて暴力的手段に出るしかない状況に押し込まれている世界の人々にも、どちらにも「貢献」となる日本ならではの道が開けるというわけですね。

そう考えると、あなたも私も、面白い時代に日本に生まれて来たものです。そういう「最先端のチャレンジ」、一歩ずつモノにしていきましょうね!

それではまた、次の記事でお会いしましょう。ブログ更新は不定期なのでツイッターをフォローいただくか、ブログのトップページを時々チェックしていただければと思います。

倉本圭造
経済思想家・経営コンサルタント
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