「私」はどこにいるの? --- 長谷川 良

独週刊誌シュピーゲル電子版(5月22日)の科学欄に衝撃的な記事が掲載されていた。イタリアの神経外科医 Sergio Canavero 氏が2017年に不治の病の体を持つ患者の頭部を脳死患者の体に移植する計画を進めているという。トリノ出身の同外科医によると、患者(30歳のロシア人)は既に見つかっている。技術的には全てOKだというのだ。6月中旬には、米国で開催される専門医会議の場で頭部移植手術に関する計画を公表するという。頭部移植計画が伝えられると、専門医ばかりか、キリスト教会などから「倫理的面から頭部移植には同意できない」という声が既に飛び出している。


心臓移植の時も激しい抵抗があった、なぜならば、ひょっとしたら心臓周辺に人間の精神生活を司る中心(私)があるのではないか、と考えられていたからだ。他人の心臓を移植するということは、移植された患者に心臓提供者の「私」が同時に移植されるのではないか、といった素朴な懸念があったのだ。

実際は、心臓移植で人格が変わる、といった懸念は全く杞憂に過ぎないことが判明した。だから、今日、心臓移植は決して珍しくなくなった。心臓が「私」の住処ではなく、単なる血液や栄養素の運搬ポンプ機能を担っていることが明らかになったからだ。

ちなみに、心臓が人間の中心と考えられていた時代、四肢五体の中でも頭部はそれほど重要な役割を担っていないと受け取られてきた。だから、遺体のミイラ化の時、心臓は丁重に扱われたが、頭は手荒い扱いを受けたという記録が残されているほどだ。

しかし、脳神経学者は今日、頭の中に精神的機能を司る神経網が張り巡らされていると主張している(「ミラーニューロンが示唆する世界」2013年7月22日参考)。他者に同情したり、怒ったりする心の働きが脳神経のどの部分によって生じるか、今日の脳神経学者は知っている。だから、脳神経学者は「私」(心)は頭の中にある、とかなり確信している。

その脳神経網が広がる頭を他人の体に移植した場合、「私」は新しい体を主管し、管理できるだろうか。それとも、体がレジスタンスを起こし、頭と戦争を挑むだろうか。SF的な世界だが、その懸念は当然だろう。

ところで、頭部移植は心臓のそれより複雑であり、熟練の外科医にとっても大変だ。Canavero 氏の説明によると、手術前、移植側と移植される側の両患者をある一定期間冷凍して保管する。手術時間は約36時間で、100人前後の医者が手術を担当する。手術で最も困難な点は、脊髄を傷つけないで頭部を分離することだ。そのため、脊髄損傷の治療で使用されるポリエチレングリコール (PEG)が利用されるという。文字通り、歴代最大規模の手術となる。

以下は、頭部移植手術が実施されたという仮定に基づくシナリオだ。頭が新しい肢体に移植され、手術は成功し、患者は目を覚ます。彼は移植された体を操作し、彼自身も手術前の自分に何も変化がないことを感じる。そうなれば、「私」の心は頭部の脳神経網のどこかに隠れていることが実証されたわけだ。「私」は頭部にいたのだ。これまで予感されてきたが、頭部移植手術で実証されたことになる。ノーベル賞級の大発見だ。頭部移植手術後の「私」の状況を懸念してきた倫理委員会はこの結果を見て、少しはホッとするかもしれない。

次は第2のシナリオだ。頭部が健康体の体に移植されたが、「私」に変化が見られた場合だ。新しい肢体を受けた頭部がその体の影響を受けて、その精神生活が変わった場合だ。最悪の場合、移植された肢体に頭が主管されるような事態が生じた場合だ。

頭部移植ではないが、腎臓移植をした女性の報告がある。彼女は手術後、無性に走りたくなったという。手術した医者によると、腎臓提供者はマラソンを趣味としていたという。移植前後で患者の生活様式に変化が見られたという報告は少なくない。

第2シナリオに直面して脳神経外科医や哲学者は頭を抱えるかもしれない。心臓ばかりか、頭部にも「私」が発見できなかったからだ。頭と他の肢体を完全に管理できる「私」はどこに潜んでいるのか。この哲学的な問題が改めて浮上してくるのだ。

この問題は哲学的、医学的レベルだけに留まらない。極言すれば、人類の人生観、世界観のパラダイムが変わるかもしれないのだ。「私」はひょっとしたら「私」の四肢五体のどこにも存在しないかもしれないのだ。脚や手に「私」が隠れていることは想像できない。「私」が存在していても可笑しくない肢体がもはやなくなったのだ。脳神経学者も研究に意欲を失い、哲学者はこの新しい挑戦に頭を抱え込むことになる。

この難問に直面して、「いよいよ俺の出番だ」と張り切る学問があるとすれば、詐欺師と久しく馬鹿扱いされてきた心霊学者かもしれない。彼らは「私たちには肉体だけではない、霊の世界が存在する。肉体は霊が暫定的に宿る場所に過ぎない」と主張してきたからだ(「心霊現象と科学者たち」2007年7月9日参考)。彼らにとって、肉体は頭部を含め、電波を受信するラジオ(ハード)に過ぎず、電波(ソフト)そのものではないのだ。心霊学者の夜明けを迎えるか、頭部移植手術の結果を待たなければならない。

17年に実施予定の頭部手術の行方が人類の歴史に新しいページを開くか、それとも傲慢な人間の無謀な冒険として歴史に記録されるだろうか。いずれにしても、「私」探しはいよいよクライマックスを迎える。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2015年5月24日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。