これほどの失望があるだろうか --- 長谷川 良

アイルランドのローマ・カトリック教会は、5月22日実施された同性婚の合法化を明記する憲法修正案の是非を問う国民投票で完敗したが、あれから2週間が経過しようとしている。その痛みが次第に効いてきた。ボデーブロウを受け続けたボクサー選手のようにだ。


教会は「婚姻は男と女の間で行われるべきだ」と固く信じている。男と男、女と女の婚姻は考えられない。その考えられない婚姻を憲法で明記するということは、「神は存在しない」という無神論を憲法で記述するのと同じことで、絶対受け入れられない。聖書を開き、必死に探したとしても、同性婚を認める内容の聖句などは見つからない。

しかし、国民の60%以上が「同性婚も認めるべきだ」と考えていることが明らかになった。この結果をみれば当然だが、聖職者の中には、「われわれは信者たちに何をこれまで伝えてきたのか」、「学校の宗教授業で何を教えてきたのか」といった自問が飛び出している。

アイルランドは統計では約85%がカトリック信者だ。その彼らが教会が認めない同性婚の合法化を容認しているのだ。教会と信者の間でこれほど大きな差が明らかになったことはこれまでなかった。まるで、信者と非信者間の格差のようだ。

聖職者の中には、信者たちに裏切られたような気持ちになる者も出てくるかもしれないが、それ以上に「われわれは何をしてきたのか」といった虚しさが強いのではないか。神を信じる聖職者は自身の無力さから絶望的になってしまうだろう。

別の選択肢がある場合、「国民がそのように考えているのならば、考え直してみよう」と言えるが、同性婚の合法化の場合、教会にとって「ノー」以外の選択肢がないのだ。しかし、国民の約3分の2が「イエス」と考えている。どうすればいいのか。

同国司教会議は今、国民投票の結果を分析し、教会はどう対応すべきかについて、話し合っている。国民が同性婚を認めているのならば、「教会は今後、婚姻式典の立ち会い人の役割を避けるべきだ」といった対応策も出ているという。なぜならば、国民の過半数が教会の婚姻観を否定的に受け取り、同性婚を容認している以上、教会が婚姻式に顔を出すことはないという現実的な対応だ。

教会に批判的な国民は「教会の自業自得だ」というかもしれない。聖職者の未成年者への性的虐待事件が過去多発した国の教会だから、教会への信頼感は地に落ちている。その教会が婚姻はこうあるべきだと主張したとしても信者の反発を招くだけだ。

すなわち、アイルランド教会は前に出られないだけではなく、後ろにも引けないのだ。当方はその状況を「これほどの失望があるだろうか」というコラムのタイトルとした。セーレン・キエルゲゴールの「死に至る病」だ。教会は「死に至る絶望」に陥っているのだ。

一人の人間がそのような絶望に陥った場合、最悪の事態を回避するために精神的ケアが必要となる、しかし、教会がそのような絶望的な状況に陥った場合、どうすればいいのだろうか。

アーマーの Eamon Martin 大司教は1日、「教会は国民投票の結果から多くのことを学ばなければならない」と述べたが、何を学ぶべきかは語らなかった。同性婚問題では教会は学ぶことはないのだ。繰り返すが、同性婚問題では教会は間違いを犯していない。同性婚に神の祝福を与えることができないからだ。

多くの国民は結婚生活で喜びと共に苦しみ、悲しみ、失望も体験している。男は女に、女は男に失望している。その国民に結婚生活を放棄した聖職者が何を語ることができるのか。先ず、聖職者は結婚し、家庭を築くことで、結婚の喜び、苦しみを共有すべきだろう。その上で、同性婚は間違いだと主張するのならば、ひょっとしたら、信者たちは耳を傾けるかもしれない。

と、いっても簡単ではないことは分かっている。宗教改革者のマルティン・ルターの話を思い出してほしい。彼は修道僧、修道女に対し、「これからは相手を見つけ結婚し、良き家庭を築いていってほしい」と語った。それを受け、修道僧と修道女たちは気の合う同士で婚約したが、一人の修道女が残った。そこでルターはその修道女と結婚したのだ。

婚姻が全ての問題の処方箋ではない。家庭が悲劇の発祥地となるケースも少なくない。しかし、神の愛を実践する場所は家庭しかないのだ。カトリック教会の聖職者たちは婚姻を決意したルターの勇気から学んでほしい。そのうえで、同性婚が間違いだともう一度、叫んでほしいのだ。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2015年6月4日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。