「保健医療2035」政策提言の本質は医療版・前川レポートである

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「前川レポート」とは何か。中曽根首相の私的懇談会が1986年に公表した報告書(レポート)で、正式名称は「国際協調のための経済構造調整研究会報告書」という。日銀総裁であった前川春雄氏が座長となり、日本経済の構造改革を提言し、中曽根首相に提出した歴史的な報告書だ。

前川レポートは、高度成長が終焉し閉塞感が漂っていた1980年代前半において、日本経済が目指す方向性(ビジョン)を明らかにした重要な役割を担うものであった。

具体的には、1980年代前半、それまで高度成長を支えてきた鉄鋼や造船等の重厚長大産業は構造的な不況に直面しており、輸出主導型から内需主導型に、製造業中心からサービス業中心の産業構造へ、大幅な規制緩和と市場の自由化により、10年近くの時間をかけて経済構造を転換していき、持続的な成長を目指すことを提言した。

この提言は、国鉄(JR)の民営化をはじめ、日本版・金融ビッグバン、財投改革・郵政民営化・道路公団民営化等の小泉構造改革のほか、企業統治改革といった現在の規制改革を巡る政策議論に繋がっていく。

厳しい財政状況の下、いまの社会保障も当時と似た閉塞感が漂っている。政府債務(対GDP)が200%超に達し、社会保障費が毎年1兆円以上のスピードで膨張する中、現状の延長線上で、社会保障が立ち行かなくなるのは、誰の目から見ても明らかであるにもかかわらず、目指すべき羅針盤が存在しない。

すなわち、パッチワーク的な制度改正による部分最適を繰り返してきた日本の社会保障制度は、長期的な視点に基づく構造改革が必要であり、給付と負担の均衡に関する議論だけでなく、目指すべき社会保障の新たなビジョンが求められている

このような状況の中、塩崎厚労大臣の私的懇談会(座長:渋谷東大教授)として、保健医療(地域包括ケアシステムも含む)について、目指すべき方向性(ビジョン)を提言したものが、2015年6月9日に公表された「保健医療2035」の政策提言である。

詳細は報告書をご覧頂きたいが、ビジョンは「リーン・ヘルスケア~保健医療の価値を高める~」(例:より良い医療をより安く享受できる。地域主体の保健医療に再編する)、「ライフ・デザイン~主体的選択を社会で支える~」(例:自らが受けるサービスを主体的に選択できる。人々が健康になれる社会環境をつくり、健康なライフスタイルを支える)、「グローバル・ヘルス・リーダー~日本が世界の保健医療を牽引する~」の3つである。

なお、筆者も構成メンバーの一員だが、タスクフォース型で徹底的な議論を行い、メンバー自らが報告書を作成したもので、審議会等で厚労省の事務方が通常作成するものとは異なっている。このため、かなり踏み込んだ提言も多い。例えば、以下のようなものである(報告書の全文はこちら)。

○報告書15ページ

複数年度にわたるマクロ的な社会保障予算の枠組み等により、関連制度や投入資源の両面から、介護を含む保健医療システム全体の最適化を行うべきである。

限られた財源の中、選択と集中を図りつつ、戦略的かつ科学的エビデンスに基づき診療報酬等を設定する中央社会保険医療協議会の分析機能の強化のために、各委員を支援する仕組みを確立することが必要である。

※ 上記「支援する仕組みを確立」という部分は、小職の見解では、「中医協の委員構成を検討・見直し、下部組織として、日本銀行の政策委員会と同様、各委員をサポートする専門組織を設置するとともに、各委員は任期4-5年の常勤とし、必要に応じて、厚労省や患者・産業界等からデータ収集やヒアリングを行い、制度改正等の提言機能を付与する」といったガバナンス改革が最も重要である。



○報告書21ページ

マクロ・ミクロレベルでの地域差に関する総合的な要因分析をさらに進め 、都道府県 の責とすべき運営上の課題とそうでない課題を精査する。都道府県の努力の違いに起因する要素については、都道府県がその責任(財政的な負担)を担う仕組みを導入する。

都道府県において医療費をより適正化できる手段を強化するため、例えば、将来的には、医療費適正化計画 において推計した伸びを上回る形で医療費が伸びる都道府県においては、診療報酬の一部(例えば、加算の算定要件の強化など)を都道府県が主体的に決定することとする。

2050年には、現在の居住地域の6割の地域で人口が半減、うち2割が無居住化する趨勢を踏まえると、遠隔地でも必要なサービスや見守り等ができる遠隔医療のためのICT基盤や教育システムの整備を今から開始する。さらに、急速に進む人口減少に対応するため、地域包括ケアシステムと新たなまちづくりの融合や司令塔となるプラットフォームの構築を促進する。



○報告書22ページ

総合的な診療を行うかかりつけ医を受診した場合の費用負担については、他の医療機関を受診した場合と比較して差を設けることを検討する。これにより、過剰受診や過剰投薬の是正等の効果も考えられる。



○報告書23ページ

医療機関に対するフリーアクセスが可能である現状においては、情報の公表や活用は、時に、一部医療機関への集中によるアクセスの悪化や、医療機関側のリスク回避を招く可能性があり、適切な医療を患者側が受ける機会を阻害する可能性もある。医療機関や医師の技術力の評価を継続的に行うことは重要であるが、情報の公表の範囲や方法のあり方について検討する。加えて、一定の自己負担の設定によるアクセスへのコントロールなども検討する。



○報告書34ページ

たとえば、基礎となる国の公的医療保険の土台に、地域や職域保険が選択的に提供できるサービスを新たに追加できるようにし、その一部を付加的なサービスととらえ保険範囲外とすることや、重症度・救命性が低く費用対効果の低いサービスの一部を保険範囲外とすることなど、さまざまな手法が考えられる。



○報告書35ページ

この他、必要かつ適切な医療サービスをカバーしつつ重大な疾病のリスクを支え合うという公的医療保険の役割を損なわないことを堅持した上で、不必要に低額負担となっている場合の自己負担の見直しや、風邪などの軽度の疾病には負担割合を高くして重度の疾病には負担割合を低くするなど、疾病に応じて負担割合を変えることも 検討に値する。

また、患者負担や保険料については、負担能力に応じた公平な負担という観点から、所得のみならず、資産も勘案したものにすることや、資産に賦課した上でリバースモゲージの活用も含む死後精算を行う仕組みとすることなどについても議論していくことが望まれる。



○報告書36ページ

こうした観点から、医療費適正化計画について、定期的に、計画に基づく全国の医療費の伸びについて実績を確認し、推測していた効果が期待通りとなっていない場合においては、乖離した原因を分析し、さらなる予防施策の推進や給付範囲の見直し、新たな財源の確保等を関係者と議論し、決定する仕組み(中期調整システム)を導入すべきである。併せて、都道府県単位での地域差是正への取組の促進(都道府県への権限移譲等)を行う。


以上は報告書の一部に過ぎず、さらに重要な政策提言が本文には多く記載されている。このため、政策提言の中身については、報告書の全文を精緻に読んで評価してもらう必要があることはいうまでもないが、今回の政策提言を契機として、保健医療(地域包括ケアシステムも含む)の目指すべき方向性に関する議論が活性化することを期待したい。

(法政大学経済学部教授 小黒一正)