東京大空襲と重慶爆撃の違い

過去の歴史を書くとき、自国(自分)の美点は過大評価し、汚点は極力小さく扱いがちだ。逆に敵(だった)国家の残虐性や犯罪性は誇張したり歪曲し、美点は黙殺するか、小さく扱う。

なぜか。それは現在の自国家の活力と繁栄を助長する一方、対立する国家の国力を弱め外交戦略の武器となるからだ。

昔からのことであるが、情報の伝播技術と宣伝のノウハウが向上した現在、情報戦略の価値はいやまし高まっている。然り、今は「歴史情報戦」の時代なのである。

70年以上も前の日本の「侵略」や「戦争犯罪」が今も中国や韓国で大きく取り上げられるのは、それが日本を貶め、自国の外交上の優位性を高めることになるからだ。安倍首相の戦後70年談話に対し執拗に「反省とお詫び」を求めるのは、そのためである。中韓の現在の非民主的で非人道的な現状を隠す効果も期待できる。

米国政府も「非人道的な侵略、戦闘行為を繰り返した悪質な軍事国家・日本を第2次大戦で倒し、民主主義を日本に植え付け、世界に平和をもたらした」という誇らしい物語を維持したいと思っている。当然、安倍首相の戦後70年談話もそうした「反省」を述べ、結果として米国の政治的、道徳的立場をたたえるものでなければならない、と思っている。

米国の過去の侵略、植民地化の歴史の恥部を覆い隠し、話題をそらすためにも日本を贖罪の山羊に仕立て上げなければならない。悪辣な植民地化では米国よりも古い歴史を持つ英仏オランダなども同じ傾向をもって、冷たく日本を見つめている。

ナチスの犯罪を抱えるドイツは、世界の批判を自分からそれて、日本に向かうことは望ましく、日本断罪に拍手こそすれ、日本をかばうことは考えていない。

だから、歴史問題が浮上するごとに各国は日本の近現代史を厳しく非難し、その反省と謝罪を促す。

だが、70年以上も前のことが何度も蒸し返されるのは日本だけだろう。欧米やロシアなども過去の歴史を批判されることがあるが、その頻度は日本ほどではないと思われる。

なぜ日本に多いのか、というと、それが優れて現在の政治、外交にとって有用と思っている国があるからだ。中国と韓国である。それよりは低いが、米国も民主党政権とそれに呼応するリベラル・マスコミを中心に同じ傾向にある。

同時に、日本国内に中韓の攻撃に呼応し、日本を悪し様に批判することとで存在感を高めようとする勢力があることも影響している。

背景にあるのは中国や韓国の思想、政治工作。それ以上に大きいのは、日本人に贖罪意識を植え付けようとした戦後の米国のマスコミへの情報操作や教育界への圧力だろう。数十年った今も「東京裁判史観」として今も残り、「日本人は戦時中、悪辣な軍事国家として周辺に多大な迷惑をかけた」と思い込んでいる日本人が、政府内や経済界も含め数多いことが土壌となっている。

往時の日本が近隣諸国に迷惑をかけたことについては、私も同意する。だが、その程度はたぶんに誇張され、歪曲されていないか、と思うことが少なくない。また、近隣諸国に迷惑をかける一方、その近代化にも戦前から貢献してきた。植民地からの脱出、独立にも間接的ながら(一部は直接的に)貢献した、と思うのだ。

ここで、日本の負の歴史が誇張、歪曲されている例を1つ挙げる。昭和13(1938)年~16(1941)年の日本軍による72回の中国・重慶爆撃がある(シナ=中国側の発表では18年まで218回)。

一般住民の住宅地まで爆撃した無差別爆撃の始まりで、死者は住民中心に1万2000人以上と言われる(一説にはもっと少ない)。これがドレスデン爆撃や東京大空襲や原爆投下などの戦略爆撃をもたらしたと言われる。つまり、東京大空襲や原爆投下という悲劇をもたらしたのも、日本が重慶で先に手を出したからだ。自業自得だ、と言わんばかりの論調が内外に広がっている。

広島の原爆死没者の慰霊碑に「過ちは繰返しませぬから」と刻まれているが、主語がないために、「最近は日本が宣戦布告なく真珠湾を先制攻撃したから、報復攻撃を招いた。無差別殺戮という事態を招く犯罪を犯したのは日本(の軍部)だ」という論法が通用し出している。

これこそ情報戦なのである。「日本が悪かった」という歴史を浸透、定着させようという戦略が背景にあると思うのだ。

確かに重慶爆撃は1万2000人を超える一般住民に甚大な被害が出たのだから、戦時国際法違反であり、非人道的と言われてもやむを得ない。だが、米国の東京大空襲や原爆投下とは大きな違いがある。

重慶に陣取った当時の蒋介石・国民党軍は、(米国製の)多大な対空砲台を、わざわざ飛行場や軍事施設から市街地域に移動させており、日本軍はやむなく市街地域の絨毯爆撃を決定した、という経緯があるのだ。蒋介石軍は一般住民が巻き添えになることが明白なのに、あえて市街地に軍事施設を置いていた。このこと事体が国際法違反なのである。

ゲリラは住民の中にひそみ、住民を盾にして我が身を守ろうとする。それは正規軍のやることではない。しかし、日本はシナ大陸で、様々なゲリラ的行為とテロ行為にさらされていた(それは米軍がベトナムやイラク、アフガニスタンで被った被害と類似している)。その事実を見ずに、単純に無差別殺戮とは言いがたいのである。

これに対して、第2次大戦時に米軍が行った日本の大都市への空襲や原爆投下は最初から住民を根こそぎに殺害する「民間人を標的にした」攻撃だった。それは様々な資料から明らかであり、攻撃を指揮したカーチス・ルメイ少将は回想録でこう言い訳しているという。

私は日本の民間人を殺したのではない。日本の軍需工場を破壊していたのだ。日本の都市の民家は全て軍需工場だった。ある家がボルトを作り、隣の家がナットを作り、向かいの家がワッシャを作っていた。木と紙でできた民家の一軒一軒が、全て我々を攻撃する武器の工場になっていたのだ。これをやっつけて何が悪いのか……

これを強弁と言わずして、何を強弁と呼ぼう。これでは軍人となる若者を育てている家庭もすべて軍事施設だ、ということになりかねない。

日本軍が朝鮮系日本人の慰安婦を強制連行した記録はないが、日本軍がその管理に関与したことは明白だ。女性の尊厳を傷つける行為だった」という以上のこじつけがここにある。

だが、それこそが歴史を題材にした情報戦なのである。少しでも自分に都合の良いように事実をねじまげ、誇張する。

「自分の犯した東京大空襲や原爆投下の罪より日本の重慶爆撃の方が問題だ」という史実を浸透させようとしている。

それに対しては粘り強く反論し、情報戦を勝ち抜かねばならない。ただし、誇張や歪曲はすまい。つねに正確な史料に基づき、反論する姿勢が肝心だ。

本ブログを書くのに、以下のブログを参照した。
小名木善行 ねずさんの ひとりごと
http://nezu621.blog7.fc2.com/?mode=m&no=1520

正統史観年表「東京大空襲と重慶爆撃を同列にする愚」
http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-430.html