必要なのは戦争の「おわび」ではなく再発防止だ

安倍首相の戦後70年談話に「侵略」と「おわび」が入る方向らしい。このうち侵略は有識者懇談会の報告書にも入っており、満州事変以降の戦争が国際法上の侵略にあたることは常識だ。1928年の不戦条約で戦争が違法化されたあとに、それを批准した日本が他国の領土を侵犯したことはルール違反である。

しかし「おわび」は別問題だ。これは道徳的に悪いことをしたという謝罪の言葉だが、正しい戦争か悪い戦争かという区別は現代の国際法にはない。もちろん戦争する国は、つねに自国が正しく敵国は悪いと宣伝する。中世ヨーロッパの内戦は悪を滅ぼす宗教戦争だったので、相手が全滅するまで終わらない。

これを避けるために、戦争に道徳的な判断を下さず、ルール違反かどうかだけを問題にするのがウェストファリア条約以降の近代戦の考え方だ。したがって1931年以降の日本軍がルール違反をおかした事実は間違いないが、それを今さら戦争の当事者でもない安倍首相がおわびする筋合いはない。

このように戦争に道徳を持ち込み、悪い戦争には果てしなく謝罪を続け、正しい戦争は手段を問わなくてもよいという正戦論は、近代以前の内戦の思想である。ブッシュ政権が「自由と民主主義が正しく全体主義は悪い」と思いこんで行なったイラク戦争は、時代錯誤の正戦論だった。

他方、日本の側にも主観的な正義はあった。林房雄などもいうように、白人の世界支配に対してアジアが独立するという日本の主張は、戦争で結果的には実現したのだ。それが全面的に否定されたのは、日本が戦争に負けたからだ。

しかし敗戦のルサンチマンと戦後教育によって、平和憲法が(戦前の教育勅語と同じように)道徳律として人々に刷り込まれ、戦争を口にすること自体が罪だと思い込む風潮ができた。安保法案を「戦争法案」と名づけて負のイメージを与えようとする野党には、今もこのルサンチマンが残っている。

歴史は勝者によって書かれるものであり、日本はバカな戦争をやって負けた。それ以上でも以下でもない。いま必要なのは後ろ向きの謝罪ではなく、憲法第9条を絶対化することでもなく、戦争の原因を客観的に分析し、それを二度と起こさないことだ。70年談話では、安保法案もそう位置づけるべきだ。