中国の「抗日戦争」に勝利をもたらしたのは誰か

蒋介石の外交戦略と日中戦争

きょう中国の「抗日戦争勝利70周年軍事パレード」が開かれるが、こういう式典に総書記が出席するのは初めてだ。中国が抗日戦争に勝てたのは、共産党のおかげではないからだ。

本書は2006年に公開された『蒋介石日記』で新たに発掘された事実をもとにして、蒋介石の対米外交の実態を明らかにしている。

抗日戦争の勝利は、現実には1945年のアメリカによる原爆投下とソ連の参戦によってもたらされた。[…]しかし中国においては、共産党の抗日戦争ストーリーが長く語り継がれ、国民党政府による戦時外交はほとんど無視されてきた(p.276)。

日中戦争で国民党と共産党は「国共合作」で日本軍と戦ったが、戦線は膠着状態だった。蒋介石は1937年のトラウトマン工作に応じる意思があったが、日本が近衛声明で和平の道を閉ざしてしまった。

その後、蒋介石はルーズベルトにたびたび書簡を送って、日本と戦うことを進言した。妻の宋美齢(アメリカ留学経験があった)は訪米してロビー活動を行ない、全米で講演して日本軍の蛮行を宣伝した。また蒋介石は浙江省の空軍基地をアメリカに提供し、ここからB29が発進して日本を空襲した。

ルーズベルトは中国に経済援助をするほか、志願兵を中国に派遣し、国民党との連携を深めた。1941年に日本が南部仏印進駐を行なった直後、蒋介石はアメリカが石油の対日禁輸を行なうように働きかけ、日本に「最後通牒」を出すべきだと進言した。ルーズベルトはその進言のとおり日米戦争を行ない、これによって中国は日本軍を初めて追放できたのだ。

蒋介石は日米開戦と同時に抗日戦争の勝利を宣言し、1943年に新国家の方針を示した。これは孫文の三民主義を継承して共産党を排除するもので、これに対して共産党は蒋介石を「ファシスト」と攻撃し、内戦が始まった。日本軍は50万人の兵力を投入して「打通作戦」で成都爆撃などを実行したが、これは結果的には国民党政権への打撃となった。

1945年に日本が降伏すると、「インドを初めとするアジアの植民地解放」を提唱する蒋介石にイギリスは反感を抱き、共産党を支援するようになった。満州に南下したソ連は共産党を全面的に支援し、物資を供給した。この結果、戦後の内戦では共産党が勝利を収め、国民党は台湾に追放された。

だから毛沢東は「抗日戦争勝利」の式典に出席したことがない。それは蒋介石の外交戦略によって行なわれた日米戦争の副産物だったからである。しかし人民解放軍はカイロ会談に毛沢東が出席したという歴史の偽造までやって、抗日戦争の勝利を盛り上げようとしている。これは危険な兆候である。