なぜ人は目前の脅威を直視しないのか~反安保デモ --- 細田 尚志

数万人が安保関連法案廃案を主張したとされる8月30日の国会前デモのニュースは、チェコでも報じられました。その報道自体は、事実を淡々と伝えるものでしたが、デモ映像を見る限り、その中身は、以前、石井孝明氏が的確にレポートされた通り、労働団体や宗教組織、野党勢力による動員デモが中心だと見受けられました。

そして、この件に関して、こちらの知人らに意見を求めたところ、中国の軍拡や活動領域の拡大、北朝鮮の核開発、ロシアの態度硬化等、日本を取り巻く安全保障環境が激変している状況で、軍事的に劣勢な日本が、同盟国アメリカとの関係を強化しようとすることに、何故、反対するのか不思議がられました。

確かに、海洋で数百キロも分け隔てられた島国の中に住んでいる限り、中国や北朝鮮等隣国の脅威を直接的に感じることは皆無なのは想像できますが、クリミア併合や東ウクライナを巡る軍事衝突が報じられ、難民が押し寄せている昨今の欧州から見れば、その様な「井の中の蛙」的感覚は、現実主義的な感覚から随分とずれているように感じられます。

尖閣諸島や南沙諸島関連の報道が一段落し、中国からの観光客数の増加や、彼らの爆買いといったニュースが数多く報じられていますが、経済先行きの不透明感が広がる中国では、経済・外交的な対日懐柔策と、公共投資の一環としての軍備増強や「中國夢」と称される民族主義的な拡張政策を使い分ける「飴と鞭」戦略が続くと予想されます。

ナチスドイツに酷似する中国の「サラミ・スライス戦術」

これまでの中国の対外拡張政策は、サラミを薄くスライスしていくように、現状変更の既成事実を、周辺の反応を見ながら少しずつ積み上げていく「サラミ・スライス戦術」と、核戦力から通常戦力、そして中国海警局から漁船まで、様々なレベル・種類の手段を、キャベツの葉の様に重ねていく「キャベツ戦術」が知られています。このうち、力を背景に、現状変更の既成事実を少しずつ積み上げていくサラミ・スライス戦術は、周辺国を次々に併合していった1930年代のナチスドイツの戦略に酷似しています。

1933年1月に、政権を掌握したヒトラーは、国民を巧みなプロパガンダで魅了する一方、ヴェルサイユ体制に挑戦し、1935年3月に一般兵役義務制度を復活させ、10月にはジュネーブ軍縮会議および国際連盟から脱退しました。さらにヒトラーは、1936年3月に、ロカルノ条約を破棄し、ヴェルサイユ条約で非武装地帯と定められたラインラントに陸軍部隊を進駐させてフランスの出方を試します。

しかし、ヤングやシュウェラーが指摘するように、国内政治が不安定で、科学技術や工業力、動員可能人口等、すべての国力においてドイツに劣ることを自認するフランスは、マジノ線等の要塞線に依存する消極的防衛政策を選択し、外交的な抗議以外に何も出来ず、ヒトラーの暴挙を実質的に黙認しました。このフランスの消極的反応に自信を抱いたヒトラーは、1938年3月、さらにオーストリア内政の混乱を突いて同国を併合しましたが、英仏は、これに対しても、外交上の抗議を行っただけでした。

英仏に軍事介入の意思はないと判断したヒトラーは、再軍備状況が不十分であるとして更なる軍事的な火遊びに反対するベック上級大将ら独国防軍参謀達を押し切り、今度は、チェコスロバキアに対して、ドイツ系住民の保護を名目に独国境地帯に隣接するズデーテン地方の割譲を迫ります。

ヒトラーの要求に対して、自国の防衛体制を確立するまでの時間的余裕を稼ぎたかった英仏首脳は、1938年9月、ミュンヘン会談の席上、欧州での軍事衝突を回避すべく、ヒトラーの条件を一方的に飲み、チェコスロバキアにズデーテン地方の割譲を強いました。これが、欧州に平和をもたらしたと同会談直後に称賛された対独宥和政策と呼ばれる英仏の妥協策の真の姿です。そして、この対独宥和政策が、欧州に平和をもたらしたかどうかは、既にご存じのとおりです。

これを、実質的に、誰も中国の行動を阻止することが出来ない現状に当てはめ、防空識別圏の一方的宣言、南シナ海での一方的な石油試掘、南沙諸島での人工島建設とその要塞化、南シナ海全域とシーレーンの軍事支配確立、台湾併合、南西諸島割譲要求へとエスカレートしていくと想像することは、考えすぎでしょうか。

勿論、中国とて国内経済発展が最優先であることは、経済減速に対して神経質に対処していることからも伺えます。そして、経済発展の為には地域の安定が必要不可欠であることも認識しているでしょう。また、減少傾向にあるとはいえ、経済的な相互依存関係により、日中有事の際には、両国経済に計り知れない影響が出ることは、容易に想像がつき、この点で、中国が、軍事的に挑戦してくる可能性は、現状では、限りなく低いでしょう。しかし、経済成長がマイナスになり、国内経済が深刻な低迷期に入った場合、国内の不満を外に向ける可能性もあり、日本の約3倍の予算を投じ、約5倍ものペースで整備されている軍事力に対し、日本も有効な対処手段を漸進的に備える必要性があることは、誰が見ても明白でしょう。

「まさか戦争になるとは思わなかった」

敗戦国ドイツが、次第に国力を回復し、チェコスロバキアの直接的な脅威へと顕在化していく1930年代初頭、チェコスロバキアは、小協商という対ハンガリー同盟の盟友ではあったものの関係が稀薄なルーマニアを除くと、ヴェルサイユ体制に対する修正主義的傾向から友好な関係とは言えなかったオーストリアやハンガリー、過去に国境問題で一戦交えたポーランドと国境を接し、周辺に友好国がいない状況でした。
 
この状況下で、軍部を中心に、国防力整備を求める声が高まりますが、折からの世界恐慌の影響を受けて国防予算は削減され、さらに驚くべきことに、1932年には、軍縮を求める世論に政界の大衆迎合主義が突き動かされ、兵役期間を18ヵ月から14ヵ月に短縮する法律が成立し、深刻な兵力減少や即応性の低下に直面します。ただでさえ小国故に、その軍事力には、自ずと限界があります。当時、軍事技術では、それなりに優位を保っていたチェコスロバキアですが、一国で国防を全う出来るほどの能力はありませんでした。

当時、チェコスロバキアは、ヴェルサイユ体制を中心とした善隣外交や、国際連盟による集団安全保障体制を外交•安全保障政策の中心に据え、国民も、経済的な繁栄や技術の進歩に目を奪われ、「自国は自分で守るものであり、究極的には、誰も守ってはくれない」という、至極当然な原則を忘れかけていました。これは、第二次世界大戦後のチェコ人の回想録に、「まさか戦争になるとは思わなかった」、「西側諸国が守ってくれると思った」という台詞が多く登場することからも判ります。

そして、チェコスロバキアにとって、最も深刻な問題は、チェコスロバキア有事の際に、ドイツ西部で軍事作戦を実施すると共に、空軍部隊をチェコスロバキアに派遣し、対独戦を支援することになっていたフランスとの軍事協力取り決め(片務的な内容)に、チェコスロバキア防衛に対するフランスの確固たるコミットメントを担保する如何なる手段(軍事協力の双務性確保、部隊やその家族の駐留、基地や施設の構築•共有、共同訓練、共同作戦の取り決め、兵器の共同開発等)も用意していなかったことでした。

それは、国際協調主義を訴えるマサリク外務大臣(当時)が、「フランスの同盟国」という色がつくことを恐れて、土壇場になるまで具体的な軍事協定を取り交わすことに二の足を踏み、八方美人的な理想主義に拘るあまり、軍事協力の内容を具体的に詰めなかったからです。その結果、フランスが、自国の国力不足を理由に、対独消極姿勢に転じると、チェコスロバキアは、対独戦のはしごを外され、孤立無援状態に陥ります。

本当に必要な議論とは

翻って、現在の日米同盟を見てみると、当時のチェコスロバキア•フランス軍事協力とは、その規模も、内容も、そして米国の軍事的能力や世界戦略も、大きく異なります。日米同盟は、日本の安全保障を担保する上で、無くてはならない存在であり、今後、厳しさを増す安全保障環境において、益々増加する一国では対応することが困難な脅威(弾道ミサイル防衛や巡航ミサイル対処、サイバー防衛等)に対処する為にも、今後も、重要な役割を果たすことが期待されます。

しかし、その頼みの綱の米国も、昨今の軍事予算強制削減措置や、オバマ政権の向き志向、米国の国力の相対的低下により、これまで米国が果たしてきた機能や役割を、同盟国に移管していく傾向にあります。つまり、これまで、日本が、米国に対して、自国の安全保障を「バック•パッシング」してきたのに対し、現在、米国から、日本の果たす役割及び地域の拡大が求められているのです。この点で、今回の安保法制は、更なる日米同盟の双務性(米国からの安全保障供与に対し、日本が基地•施設等を提供している点で、完全な片務性ではない)向上につながり、同盟の機能強化や協力深化に寄与するとともに、日本防衛に対する米国のコミットメントを担保する上でも非常に重要な措置です。

この点で、日本の未来が託されている若者には、文化祭の乗りで「馬鹿か、お前は」と叫ぶのではなく、1930年代のチェコスロバキアが置かれていた状況に似て四面楚歌に置かれている日本の安全保障に果たす日米同盟の重要性について、現実主義に則って、冷静に考えてほしいと思います。その上で、法案の廃案云々ではなく、自衛隊員の身分や、有事の際に本当に重要な装備等について、具体的に建設的な議論して頂きたいものです。

細田 尚志
チェコ・カレル大学社会学部講師、1972年生まれ、カレル大学社会学部講師(安全保障論)、チェコ外務省研修所客員講師(アジア・太平洋地域の安全保障情勢)。(財)日本国際問題研究所研究助手、在チェコ日本国大使館専門調査員を経て、2007年より現職。2009年よりチェコ日本商工会事務局次長も兼任。