完全なゼロとゼロにも近い微小な確率の本質的な差

2015年12月22日 11:30

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2011年3月11日に東北を襲った地震と津波、人知の及び得ない先に、深淵が口を開いたということなのか。語り得ない深淵なのか。そう、語り得ないのだ。あのような悲劇を前にして、言葉は意味を失ったのだ。悲しみの言葉も、空疎なのだ。


あのとき、被災地を遠く離れたところにいて、何を論じるにしても、無力だと思った。しかし、敢えて、思いを記録にとどめた。それも、自分の専門領域である投資との関連において、また、遠い昔、哲学徒だったころからの思考の流れのなかで。今、その記録を読み返す。

橋を渡ることができるのは、橋が落ちないという信念のもとでのみだ。飛行機に乗れるのは、飛行機が墜落しないという信念のもとにおいてのみだ。不確実な将来へ向けて投資できるのは、損失を回避できるという信念のもとでのみなのだ。

津波の深刻な被害の歴史をもつ地域に、津波の危険を想定できる地域に生活できるのは、その危険を回避できるという信念のもとでのみ、可能だったのではないのか。その信念は、過去の経験と、その経験に基づく万全の対策に裏打ちされていたからこそ、だからこそ、信念なのだ。つまり、信念は、経験知なのであって、まさに想定のなかにあるものなのだ。

想定の外は、信念の形成にとって、賭けである。その賭けは、想定のなかでは、ゼロにも近い微小な確率として想定されているのである。完全なゼロと、ゼロにも近い微小な確率とは、合理性の支配する世界では等しい。その合理性を超えて、ゼロにも近い微小な確率のもとで生起する事象、それが、東北の悲劇だったのだ。

合理性の範疇に入らない危険があること、その危険を避けては、人は生きられないこと、合理的認識を超える微小な危険に対する賭け、その賭けなしでは生活はなりたたないこと、そのことが哲学の課題でなくして、哲学とは何なのか。

万分の一の確率の悲劇でも、その悲劇が生起してしまえば、100%の具体的現実である。可能性が問題なのではなくて、現実性が問題なのだ。ゼロにも近い微小な確率については、可能性としては、ゼロに近くても、現実性としては、ゼロではない。

故に、賭けを意識の底に沈めるのではなくて、現実性として、賭けを直視し続けることが重要なのだ。飛行機に乗れば、必ず安全に関する注意を受ける。事故の微小な可能性を直視させているのはそのためである。投資においては、損失の可能性が念頭から去ることはない。

経済との関連において、その微小な確率を処理することは、極めて難しい問題である。原子力発電所の安全性が、まさに、経済合理性との関連で究極の論点になるのだ。福島の事故において、もしも「安全神話」という誤りがあったとしたら、それは、微小な確率の想定というよりも、微小な確率を直視することの問題であったはずだ。

原子力事故の微小な確率を直視したとき、原子力事業を継続できるかどうかは、原子力技術の安全性に対する国民の信念、より広く、生命科学も含めた科学技術自体に対する信念に帰着するわけである。信念をもてるか、これは、もはや哲学の領域である。

森本紀行
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
HC公式ウェブサイト:fromHC
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