ストビュー撮影車との遭遇

若井 朝彦

もう先週のことになる。金曜の夕方だった。市街を移動中のこと、風変わりな車が目に入った。パーキングに停まっている。興味を持って、こちらも停止した。

ストビューの撮影車なのである。しかし車体にはかなり傷がある。現役の、本物の撮影車なのだろうか。狭い道に入り込んで撮影するとなると、車体も傷むのだろうな、とは思うものの、それにしても傷だらけである。そしてけっこう古傷だ。サビが深い。昨日今日の京都の狭い路地の撮影で付いたものではない。

カメラは低位置に下げられていてカバーがかかっているし、だれも乗っていない。挨拶も質問も世間話もぜんぜんできない。残念であったが、しかし撮影中の車であったら、こちらの姿も画像として取り込まれていたかもしれない。あまりいい感じはしなかったはずだ。駐車中でちょうどよかったのである。たぶん月曜までここで週末の休息なのだろう。

そういうわけで、当方もこの車を、とくに断りを入れることもなく、公道から何枚か撮影。

ストヴュー車

ストビュー自体、プライバシーの問題で訴訟などになって、写り込みの車のナンバーについてはボカすことになっているくらいだから、この写真でも消しておいた方が無難じゃないのか、というまったく弱気で消極的な理由でナンバーは消すことにしたが、しかし単純に消すだけでは芸がない。車体塗装とおんなじ地図模様の仕様で、つたない塗り絵にして遊ばせてもらった。

だがwikiを見ると、堂々とナンバーが写った画像を出している。wikiの車は成田ナンバーである。この車も同じ成田だった。京都のだれかが、塗装もそのまま、カメラ付きの中古を買った、というものではやはりないようだ。現役の車なのであろう。

このように好奇心があって近寄ってみたわけだが、じゃあストビューに魅力があるかというと、これがまったくなのである。今日すぐになくなっても、わたしは困らない。

日頃から、いずれ日刊新聞は絶滅するぞ、などということをつぶやいていながら、しかし明日、急に新聞がなくなったら困るのである。それはWEB版というものが、今よりも充実していたとしてもやはり困るのであって、わたしにとっては、紙の新聞がなくなると、情報の反芻に困難を来たして、一日の生活が乱れてしまうと予想されるのだ。もっとももしそれが現実となってみると、おそらく数日の内に慣れてしまうだろうが、いま現在のわたしに抵抗感があるのはたしかだ。

しかしストビューは、今日すぐになくなっても、わたしは困らない。ストビューなるものが登場した時は、そんなものがあるのかと驚き、この先、ネットで何年も退屈することはないだろうなと感嘆したというか、ほとんど熱狂したものであったが、すぐにも冷めてしまった。

たしか2008年、鎌倉のやや込み入ったところに行くのに、ストビューで下調べしてから行ったのだが、結局は地図ほどは役に立たないのである。以後はほとんど使わない。今回すこし触ってみたが、将来、使い勝手が格段によくなっても使わないと思う。

ストビューを有効に、そして猛烈に使っておられる方も多いはずだ。しかし普段の会話で、ストビューがどうした、どう使ったなどという内容になることはまったくといっていいほどない。

ストビュー・カーの車体の傷もこのあたりの事情を物語っているのではあるまいか。傷がつくのも仕事の内、というような撮影作業なのだろうが、IT(この言葉がすでに古い)界隈の花形であれば、やはりバリッとした車を走らせているはずだろう。

しかしストビューに限らず、新しい電脳のシステムがどんどん古くなるのは、より新しいものが古いものを呑み込んでゆくからなのか、それとも人間の飽き性がそれほどまでに強いのか。またその一方で、もちろん人間には執念深い面もあって、これが国家単位に準ずるまでにもまとまると、それはそれで著しく統御がむずかしくなるのだが。

このようにいろんな断想が浮かんでは消えたストビュー撮影車との遭遇であったのだが、最後にまだ付け加えるならば、(新聞はともかくとしても)印刷による地図、書籍という古典的な情報伝達の形式は、まだまだ電脳の骨格であることは確かで、電脳の内部に取り込まれても意外としぶとく形を守り、電脳の外でも、そう簡単にヘタりそうにはない、ということである。

2016/09/11 若井 朝彦

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