創造の芽吹く環境は、個人が自由に使える開かれた環境でなくてはならない。そこでは、個人が主役だ。他方、創造の芽が育つ環境は、企業が計画的に準備した環境でなくてはならない。そこでは、企業戦略が主役だ。
こうしたことは、日本の一般的な企業人事の世界でも、広く理解されていた。若手人材の育成というとき、それは、もともとは、企業主導で個人を育てるというものではなく、職場環境のなかで個人が育っていくという個人主導のものであったはずなのだ。他方、人材の登用というのは、できる人材に挑戦の機会を与えることであり、より伸びる環境を提供するという意味であったはずだから、それは企業の事業戦略に基づく人事戦略の一環であったのである。
実際、育つ人は勝手に育つから中核業務で登用し、育たない人は、どうしても育たないのだから、その人なりの傍流の職務を見つけて、それなりに処遇する、こうしたことは、どこの企業でも行われてきた。
そして、日本企業にも、経済成長期には、新商品開発などには、テレビドラマにも構成できるような感動的な創造の現場があったのだ。その創造の現場は、創造の芽吹く環境と創造の芽が育つ環境との結合だったのだと思われる。
しかし、今となれば、創造の芽吹く環境は失われ、奇跡のように芽生えた創造の芽も、瞬くうちに枯れてしまう、このような企業が多いようだ。そこには、個人の主体性(規律のもとの自由)と環境の多様性(ダイバシティと英語でいう必要もない)に、深刻な問題があるのである。
創造とは変革であり、変革からしか創造は生まれない。創造は、喩えるならば、物質の組成を変える化学反応であるし、化学反応には触媒もいる。そのような化学反応を生む環境が何であるかは難しい問題だが、間違いなくいえることは、同じようなもの同士を、同じような配列でおいても、何も起きないことである。
多様なものが自由に動き続けるからこそ、何かと何かがぶつかり、何かを触媒として、新しい何かを生むわけで、そのような偶然性を正面から認めるとき、多様性を高めることで、確率を高めるという組織論が生まれてくるわけだ。
これは、人を費用と考えるか、投資と考えるかの問題だ。あるいは、効率と無駄との関係だ。マニュアル化に象徴される効率化が、創造の芽吹く環境の豊かさを破壊したわけだが、効率化の視点からみれば、豊かな環境とは無駄である。しかし、無駄ではなく投資と考えれば、そこには、豊かな創造の可能性がある。
創造と革新こそが、企業の成長であるなかで、その創造と革新の可能性を小さくするような効率化は、愚かしいことではないのか。要は、結果の問題だ。無駄のようにみえるものが実は投資であり、その投資が利益につながれば、それでいいのだし、それ以外に企業の成長戦略というものがあるわけでもない。
さて、その場合、企業の成長への確信とは、何に基づくの。創造の芽吹く環境の豊かさは、多様性と個人の主体性の次元において、客観的に認識可能だ。故に、確信の基礎たり得る。創造が発生する確率の制御と、創造の芽を育てる環境設定とは、経営の技術として、経験に基づく類型化等を通じて、客観化可能だ。もちろん、後講釈の域は本質的には脱却できなくとも、絶えざる努力は、確信の基礎を形成する。
森本紀行
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
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