PPAPとリズムとナンセンス

いまさらながらだが、PPAPが癖になっている。

それこそ最初のころは、

「ピコ太郎っていったい誰」

だったわけだが、それから何度も聞くうちに、シンプルなように見えて、リズムに仕掛けがあって、飽きるということはなくて、プロデューサーの『古坂氏』とピコ太郎(藝人にとって最高の敬称は敬称抜きで呼ばれることだろうと思うので、敬称抜き)の音の引出しの多彩さと、その多彩さに引きずられないサジ加減の上手さ、ブレンドの巧さに気がつきはじめたのが今。

序奏は4ビート。4小節でひとつのブロック。これが2度くりかえし。単純でありきたり。ちょっと油断させている。

セリフ? が入るともっと単純な2ビート。ところどころでアクセントに変化が入って、途中「pineapple‐pen」で刻みが細かくなって疑似8ビート。

で、最後に見得。「pen‐pineapple‐apple‐pen」で変化をつけた16ビート。おやおやという間に乗せられてしまう。

この「pen‐pineapple‐apple‐pen」がリピートして、最後は小噺のサゲみたいにサッとおしまい。この間約60秒ほど。

割り切ってしまえばこれはナンセンス藝なのだが、ナンセンスほどセンスやリズム感が要るものもない。ギャグに合わせてコケル藝だって微妙な間で成り立っているわけで、タイミングを外したら、舞台客席とも瞬間冷凍である。

ナンセンスには意味も思想もないが(ほとんど同義反復。しかしこれは澤田隆治氏の「ナンセンスには意味はありません」という名言の借用の焼き直し)、意味だらけの世間や生活や職場を、ナンセンスは一瞬真空にしてくれて、無用のこわばりをリセットするのだ。(それゆえ、超独裁国家ではナンセンスは生息が極めてむずかしい。)

しかしこんな風にしてナンセンスというものに意味や意義を求めすぎると、ナンセンスが野暮なハイセンスに化けてしまって、その価値を削いでしまいかねないので、はなしを少しずらすが、わたしの以上の年代の者は、PPAPを聞いて、ああこれはトニー谷だ! と思った人も多いのではあるまいか。

実際検索をかけてみると、とっくに日刊ゲンダイのオンラインが、その線でピコ太郎を扱っている。

『ピコ太郎の原点? 往年の芸人「トニー谷」と数々の共通点』(2016年11月6日付)
http://www.nikkan-gendai.com/articles/view/geino/193321

わずか数ヶ月で、週刊誌に揶揄られるだけピコ太郎が偉い、ということだが、しかしもし、誰かがトニー谷をなぞったとしても、それでサマになるのは滅多にないことだし、ましてそれで爆発的に売れるなんていうことは、ほとんど起こり得ないことだ。やっぱり『古坂氏』とピコ太郎の勝ちなのだ。それに『古坂氏』とピコ太郎には、往年のトニー谷以上のリズムの「持ちネタ」がまだまだあるはずだ。

しかしリズムというものは、とことん強い。「音楽は世界の共通語」とか「音楽は国境を越える」といった成句があるけれども、これらはほとんど本当ではない。ただ、リズムとなると、そんな壁を簡単に越えてゆくことがある。速くて細かくてアクセントが強くて、繰り返しがしつこいと一層効果的で、これは『運命』(ベートーヴェン)だって『ヴァルキューレの騎行』(ワーグナー)、『トルコ行進曲』(モーツァルト)、『イタリア』(メンデルスゾーン)だってそうだ。したがってその分用心も必要で、政治家のワンフレーズだって、シュプレヒコールだってリズムがその良し悪しを決めていたりする。

ところでピコ太郎は暮の紅白に登場。わざわざPPAPを封印することはないだろうが(それはそれでおもしろいかもしれない)、まったく同じヴァージョンではないはずで、どんなリズムのひねりを入れてくるのかと、とても楽しみ。

2016/12/27 若井 朝彦

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