安倍首相の真珠湾訪問について、世界でいろいろな論評が出ている。日米の歴史学者からの公開質問状はいつもの糾弾調だが、ちょっとおもしろいのは安倍首相が事務局長代理をつとめた1994年の「終戦五十周年国会議員連盟」の結成趣意書についての指摘だ。
ここでは、今日の平和と繁栄は「昭和の国難に直面し、日本の自存自衛とアジアの平和を願って尊い生命を捧げられた二百万余の戦歿者のいしずえのうえに築かれたことを忘れることは出来ません」と書かれ、戦後50周年談話に「侵略的行為」や「植民地支配」という言葉が入ることに反対している。
これは共産党が10年前に国会で質問したが、安倍首相(第1次内閣)ははぐらかした(つまり事実は認めた)。これは政治的には正しくないが、歴史的には正しいのだろうか?
結論からいうと、主観的には正しい。1941年11月に陸軍省の石井秋穂大佐が書いた「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」には「すみやかに極東における米英蘭の根拠を覆滅して自存自衛を確立する」と書かれているからだ。これは公式文書ではないが陸海軍のコンセンサスだったので、彼らが「自存自衛」の戦争だと思っていたことは間違いない。
では客観的にみて、どうだったのか。よくいわれる「ルーズベルトの陰謀」という話は歴史学では否定されているが、ハル・ノートでアメリカが日本を戦争に追い込んだことは事実だろう。もちろん挑発に乗った日本政府がバカだったが、丸山眞男でさえ「満州からの撤兵を1941年に言い出すのはワイズではない」とハル・ノートを批判した。
ルーズベルトが日本との(そしてドイツとの)戦争を望んでいたことは、あらゆる史料で明らかであり、日本政府はそれに受動的に対応したにすぎない。森山優氏も指摘するように「非(避)決定が支配的な日本の意思決定システム」では、強烈な外的ショックがないと何も決まらない。ハル・ノートは、そういう「外圧」として機能したのだ。
アメリカ政府はそういう日本的意思決定を知る由もないので、追い込めば日本政府は「絶対に勝てない」と合理的に判断して譲歩するかもしれないと考えた。それが米軍が無防備のまま、日本軍の奇襲を受けた原因だ。「日米の歴史学者」がいうように、日本軍は真珠湾の直前にマレー半島のイギリス軍を攻撃したが、彼らもまったく無防備だった。
「非決定が支配的な政府」は今も同じだから、安保法制のように外圧がないと何も決まらない。次のショックは、金利上昇とハイパーインフレだろう。問題を先送りしてそのショックを最大化する安倍首相は、彼の祖父と同じように日本を「焼け跡」にしてリセットした首相として歴史に残るかも知れない。