JASRACの「演奏権」は自然権か

JASRACが音楽教室から著作権料を徴収する方針を決めたことに対して、ヤマハや河合楽器など大手の音楽教室が反発している。ネット上でも批判が圧倒的に多いが、これに敢然と反論したのがJASRAC理事の玉井克哉氏だ。


もちろん彼は中立の立場ではないが、本業は東大教授。「天下り」でも「ロビイスト」でもない。私もJASRACには悪い印象しかないが、今回の件については玉井氏の意見が正しいと思う。

「演奏権」は著作権法で認められた「自分の作曲した曲を演奏する権利」だが、それにもとづいて他人の演奏を禁止する権利も発生する。これは憲法に定める表現の自由を侵害する権利で、自然権とは認められないが、そんなことを言い出したら著作権そのものが自然権とはいえない。「知的財産権」は、知識の利用によるキャッシュフローを財産権という社会に定着したモデルで独占する制度だ。

こうした問題については、私も昔「デジタル情報のガバナンス」という論文でサーベイしたが、一般論としては「デジタル情報のコピーを法的に制限することは、投資のインセンティヴとなる一方、情報の共有をさまたげ、効率を低下させる。インセンティヴと効率性は分離可能であり、情報を共有しつつ投資を促進する制度的な工夫が必要である」。

経済学では、財産権モデル以外にいろいろな制度が提案されている。たとえば政府が特許を買い上げる報奨制度もありうるが、ほとんど実用化していない。Boldrin-Levineは知的財産権の廃止を提案しているが、まったく相手にされていない。

その最大の原因は、財産権以外のモデルでは分権的な解決が困難だからである。報奨制度はエイズの治療薬で試みられているが、政府が個別の特許の価値を査定することは困難で、普遍的な制度にはなりえない。原理的にいうと、財産権を前提にして合理的な投資が行われればいいので、ベルヌ条約で安定性の強い著作権には、それなりに合理性がある。

自然権ではないと言い出したら、著作権ばかりでなく土地の所有権も自然権とはいえない。ジョン・ロックの主張したpropertyは自己の身体を守る権利から派生し、彼はそれを自己労働の生産物として正当化したが、この意味で土地所有権が自然権でないことは明らかだ(ロックも認めている)。

つまり財産権そのものが自明の自然権ではないのだ。それは紛争を回避するために結ぶ契約のテンプレートであり、ウーバーのように車を必要なときだけ借りる契約が可能なら、所有する必要はない。原理的にいうと、将来のすべての可能な状態について完備契約(Arrow-Debreu contract)を結ぶことができれば、財産権は必要ない。

実際にはそんな完備契約は不可能なので、紛争が起こった場合に法廷で立証可能(verifiable)な権利として財産権が設定される。これがHartの契約理論の根本原理である。実際の契約で圧倒的に財産権が多いのは、契約コストが安いからにすぎない。著作権や演奏権が不自然なのは、財産権がもともと自然権ではないからである。