言語の違いによる文化比較論は精緻を極め、専門化、細分化による弊も多い。本来の目的である相互理解の促進からはほど遠いのが現状だ。最も身近である言葉を通じ、大局的な視野に立ったコミュニケーションの強化、深化が進められてもよい。
最近、気になったのが日本語の「八方美人」だ。これを中国語に訳そうとして悩んだ。日中の辞書を引くと「八面玲瓏(れいろう)」とある。「玲瓏」は細工が精巧細微なさまや、利発な人間を形容する。八面玲瓏は時に、「世渡り上手」への風刺も含むが、元来、どこからみても曇りのない、非の打ち所がない状態を指す表現だ。八面玲瓏は日本語でも用いられ、中国語の原義と同じ意味だ。だれに対してもいい顔を見せる八方美人とはずれがある。
人物評としてみれば、八面玲瓏は人間関係を上手に処理する交際術を備えた練熟の人物、プラスイメージを持っているのに対し、八方美人は類義語がお調子者や阿諛追従に近いマイナス評価しかない。八方美人は中国語にないので、和製四字熟語であろう。中国語に訳すには、「両面性」「無原則」とでもするしかない。外からどう見えるかではなく、実際にどうあるかに重きを置いた表現となる。
一切スキを見せず、万人にいい顔など凡人にはできない。だから取り繕って無理をする人物に虚偽を感じ、見下げる心もちが八方美人の語感にはある。だが世渡り上手を軽蔑するのは、原理原則を重んじる国民性なのか、と問われればだれも首をかしげるしかない。メディアは八方美人的な論調にあふれ、そうした人間もまたあまりにも多い。世渡りの達人に求められるのは、八方美人との評が立つことさえ避けるほどのバランス感覚だ。背景には、良くも悪くも人目を過剰に気にする文化が存在している。
八面玲瓏には、無理であっても理想を求める心情が含まれている。理想であることが虚偽のいかがわしさをオブラートに包んでいる。無原則な人間を揶揄するのに、わざわざ美人や玲瓏な玉を持ち出す手間はかけなかったのだ。どう見られるかという受け身ではなく、どう見せるかという文化の違いもある。韓国語に詳しい中国人に聞くと、韓国語には漢字にすれば「八方美人」となる言葉があるが、「才色兼備の美人」の意味もあり、プラスイメージだという。
社会に生きる以上、人目を気にするのは人間の定めである。問題は、どのように気にするか、である。日本語には「顔をつぶす」「顔を立てる」「顔色をうかがう」など、顔に関する豊富な表現がある。面子を重んじる中国には、「面子にこだわる」の意だけで「愛面子」「要面子」「講面子」があり、「面子を与える」は「看面子」「給面子」「留面子」、面子をつぶす場合は「駁面子」「掃面子」「裁面子」「傷面子」などと枚挙にいとまがない。
日本人の「顔」は恥の文化とかかわるので、露骨に「見て」も、「見せる」のもいけない。目立たないように顔を立てなければならない。露骨な振る舞いは空気が読めない行為として排斥される。中国人のメンツはむしろ、だれがだれのメンツを立てたのか、みんなにわかるように表現しなければ意味がない。状況を踏まえて人のメンツを立てられる人物には、非常に高い評価が与えられる。その逆もしかりで、メンツをつぶす行為には忘れがたい恨みや憎しみがついて回る。いい加減な空気は入り込む隙間を与えられていない。
こんな試論を学生とたたかわせるべく、新学期から日中文化コミュニケーションの新講座を開設することにした。汕頭大学長江新聞輿伝播学院(ジャーナリズム・コミュニケーション学部)では、教師が自分の開きたい講座を申請し、意義があると上層部に認められれば認められる。定員も教師が指定できる。声を上げれば答えが響いてくる。声を出さなければ忘却される。新講座は範囲が広いので、学部長の判断で、全学の学生に公開することとなった。私は、お互いにしっかり顔の見える授業を望み、最小の30人にしぼった。文科系から理科系まで300人の申し込みがあった。いい加減な授業はできない。顔色をうかがうのでもなく、メンツを考えるのでもなく、まっすぐな目と真剣に向き合いながら、真理を探究する逃げ場のない勝負をする。だから一時帰国の目的は図書館通いである。
編集部より:この記事は、汕頭大学新聞学院教授・加藤隆則氏(元読売新聞中国総局長)のブログ「独立記者の挑戦 中国でメディアを語る」2017年2月7日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、加藤氏のブログをご覧ください。