AV出演強要問題の不都合な真実(中編)

中山 美里

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26日には政府主催のパレードが渋谷で行われるまでに。新聞各紙でも報道され「世論」は作られていくばかりだが…(朝日新聞デジタルより:編集部)

現在、「AV出演被害相談」事業を行っているのは「NPO法人 人身取引被害サポートセンター ライトハウス」(以下、LH)および「ポルノ被害と性暴力を考える会」(以下、PAPS)の2団体(協働事業)。

しかし、ここに集積されている「被害」のほとんどが、言葉本来の意味での「AV出演強要」を訴えるものではないと前回の記事に書いた。これはいずれ別の機会に書きたいと思っているが、2009年に国連が日本に出した勧告が、この「出演強要」の定義となっている事情もある。しかしなぜ、前出シンポジウムのように「AV出演強要被害」が、彼女たちの運動のお題目として唱えられているのだろうか。

「当初、私たちには、相談者は被害者だという思い込みがありました。そのため『AV出演被害支援相談窓口』とネーミングしちゃったんですね。これがまずかったなと思っているんですけど、今さら変えられないです。相談をしてくる人の多くは、『被害者じゃないんですけど、相談してもいいですか?』という感覚で、自分を被害者だと思っていないんです。こういう困った事態に陥ったのは、自分がバカで、自業自得で、自分の責任だと思い込んでいる。だけど、今、自分が目の前にしているこの事態はとても耐えられないので、なんとか相談にのってほしい、そういう形でやってくるんです」

つまり、「出演強要」や「被害」という言葉が相談事例の総体を適切に表現していないことは、PAPSも自覚している。にもかかわらず、公明党が昨年12月に「AV出演強要問題対策プロジェクトチーム」を発足させたように、件のお題目は広がっていく一方だ。

「『AV出演強要被害』とメディアがネーミングし、その言葉が一人歩きしている。それは私たちの力ではどうすることもできません。そういう風にネーミングされて、世に伝わっている状況だなと思っています。メディアで大きく報じられたことにより、『これは相談していいことなんだ』と。でも、ネーミングしてもらったことで、これって私のことだよと思える女性が多くなったというのは確かですね。今まで誰にも相談できなかったんだけど、こういう相談をしてもいいんだと気づかされるきっかけになると思うんです」

いち人権団体が起こしたムーブメントは、メディアを巻き込んだイメージ戦略によって加速され、いまや国会で議論される寸前まで急拡大した。ここからはそろそろ冷静になって、言葉を正確に使う段階に達しているのではないか。その点で言えば、AVの定義についても議論が必要だろう。

混同するAV出演強要と過去作品の取り下げ問題

AVとは、アダルトビデオの略語であり、その創世記は’84年までさかのぼる。この年の1月に宇宙企画が『ミス本番 裕美子19歳』で大ヒットを飛ばし、「美少女モデルを起用したSEX映像作品」という、AVにおける基本的な型が確立したのだ。

以来、多くのAVメーカーが乱立し、AV監督たちは思い思いの実験的な作品に取り組んだり、わいせつ観念への挑戦を世に問うた。だが、彼らの前には、いつも高い壁が立ちはだかる。それが、有力AVメーカーから構成される会員制の自主審査組織「日本ビデオ倫理協会」(ビデ倫)による審査である。当時のAV流通の柱は、急速に数を増やしていたレンタルビデオ店であり、ここで扱ってもらうためには、ビデ倫の審査を通過している必要があった。警察当局による摘発を避けるためビデ倫は警察OBをメンバーに招いており、その審査基準は極めて厳しく、性器・肛門はもちろん陰毛の露出すらNG。フェラチオや挿入シーンが始まると、画面のほとんどがモザイクに覆われてしまうほどだったのだ。その他、タイトルとして使用NGの言葉が事細かく規定されたり、近親相姦や未成年などをテーマとした作品においては、描写についての留意事項が設けられるなど、箸の上げ下ろしまでにおよぶチェックに、反発を覚える監督は少なくなかった。

我が国では、こうした審査を通過した作品群が、「アダルトビデオ」と呼ばれて流通してきた。これが歴史的事実である。一般消費者側は意識していないが、AVの作り手側は常に審査を念頭に置いて作品と向き合わざるをえない。そしてこの状況は、AV流通の主戦場がレンタルビデオ店から個人向け直接販売に移った現在でも変わっていない。かつてのビデ倫の系譜を継ぎ、ソフトオンデマンドなどが加盟する「日本コンテンツ審査センター」、ムーディーズやエスワンなどが加盟する「ビジュアルソフト・コンテンツ産業協同組合」、そして老舗クリスタル映像やツタヤ系列のメーカーが加盟する「日本映像ソフト・制作販売倫理機構」によって、年間約24,000タイトル(IPPA調べ)にのぼる作品が審査を受けている。

一方、近年ではインターネットの普及により、こうした審査団体を通さずにゲリラ的に動画を配信して収益を得る個人撮影者やグループが多々現れるようになった。宮本氏も「ネット社会なので、個人で参加する人たちがすごく多くて、それこそはっきり事件だと思っても、相手がどこのだれと特定できない相談もあります」と大いに懸念するところだ。

ところが、AV出演強要被害を追及する運動の急先鋒に立つHRN事務局長の伊藤和子氏は、3月2日のシンポジウム直後に私がAVの定義について尋ねたところ「個人が撮影して流通させているものはAVに含みませんが、審査団体を通さない映像もAVと見なしています」と答えた。一見矛盾しているこの定義の意味するところを完全に理解するためには追加の取材が必要だが、伊藤氏はなぜか私の取材を拒んでいる。それどころかシンポジウムの後囲み取材中に頂いたコメントにさえ、記事で使わないよう私と週刊誌A編集部にメールを送ってきている。メディアや政治家を駆使して日本社会にAV業界の非を大いに喧伝している彼女が、AVに対してあいまいな定義しか持っていないのであれば、これは大きな問題ではなかろうか。

ただ、伊藤氏の名誉のために言えば、彼女からのメールに「AVの定義について不安なので、そのコメントを使わないでほしい」とは書いていない。その代わりに述べられているのは、以下の4点。

「自分は週刊誌Aの取材を留保している」
「自分は媒体を選ぶ権利がある」
「自分は信頼関係のもとにメディアと話をする」
「できあがった原稿は公開前にチェックする」

伊藤氏がAVに対して無知な可能性があることよりも、実はこちらの方がよほどスキャンダルかもしれない。彼女から発信された情報がメディアに載せられる時、それは報道の体裁をとってはいるが、実態としては彼女の広報であることを週刊誌Aに対して自白している。彼女から発信された情報をもとに記事を構成しているメディアは数多く、それが現在のAV出演強要を取り巻く世論状況のベースになっている。曖昧な定義に基づいた言葉に乗せられてしまうことの危うさに、日本社会はもっと敏感になるべきではないだろうか。(後編に続く)