松本麗華さんのブログ:今までの経緯(まとめ)前編

松本 麗華

父・麻原彰晃(松本智津夫)と別れてから、22年ということで、2013年11月~2014年3月までにアップした記事をまとめました。

まだ読まれていない方、読んでいただけると嬉しいです。

父と再会し、会話ができますように。

クローバー アーチャリー 麻原彰晃

家族であるわたしたちですら、詐病だと思っていました

父は1995年5月16日に逮捕されました。逮捕後はすぐに接見禁止をつけられ、弁護人以外誰も接見ができなくなりました。家族にできるのは差入れのみでしたが、父からは当初、食品などの差入れ依頼や、お礼などもありました。しかし、1996年の11月以降、I証人への弁護人反対尋問があった頃から、明らかに精神に変調をきたし始めました。

法廷におけるいわゆる「不規則発言」がはじまり、1997年のはじめには、差入れ品が入らなくなりました。差入れ品を受け取るには、本人の意思表示が必要ですので、この頃には既に意思表示ができない状態だったのだと思います。それに加え、同時期に弁護人も接見ができなくなりました。

その後、一審判決確定、即日一審弁護人が控訴、即日控訴審弁護人の選任などがありましたが、すべてが父の意思が介在しないまま行われました。

実は、父の不規則発などが報道され始めたころから、2004年に逮捕後はじめて父と接見するまで、実の子どもであるわたしたちでさえ、父はずっと詐病であると信じていました。優しく尊敬していた父親が精神を病んでいると認めるのはつらいことでしたし、逮捕後、わたしより間近で父を見ていた裁判官やマスコミの方々が、父を詐病と扱っていたからです。

しかし、実際に会ってみると父は報道と違い、完全におかしく、素人目に見ても心神喪失だろうと思える状態でした。

3カ月拘置所に通うも接見拒否

2004年2月27日、父の第一審裁判が終わり、控訴審となりました。控訴審になってから一ヶ月ほどしてから、父の弁護人は東京拘置所に当初週に2,3回赴き、父に接見を申し込み続けました。しかし、父が接見室に連れて来られることはありませんでした。

父と一度も会えていない弁護人たちは、困り果ててしまいました。父の意思が一切確認できない。そもそも、控訴をしたいのかどうかすらわかりません。本人の意思不在のまま本当に裁判をしていいのかと、先生方は苦悩していました。

本人に会えないから控訴趣意書を書くことは不可能だという弁護人に、早く控訴趣意書を提出してもらいたい裁判所も困ったのでしょう。当時の弁護人と裁判所との手続の流れからして、裁判所から東京拘置所に接見をさせてほしいというような何らかの圧力がかかったのか、突如として父は接見室に連れてこられるようになりました。

はじめて弁護人が父と接見できたのは、7月29日のことだったと聞いています。
4月4日から接見を申し込みはじめ、拘置所に接見拒否された回数は36回以上。控訴してから実に5ヶ月も経っていました。

※弁護人の活動や裁判所の対応などは、「獄中で見た麻原彰晃」(インパクト出版)の「麻原彰晃氏控訴審の経過概要」を参考にしました。

不信、それとも病気――?

弁護人は接見できるようになりましたが、父とは一切会話が成り立たず、意思疎通ができる状態ではありませんでした。

「このままでは一行も書けない。麻原さんは自分が接見室にいて、目の前に弁護士がいることもわかっていないかもしれない。それか、もしかしたら麻原さんに、弁護士というものに対する、不信感があるのかもしれないんだよなあ」

わたしたちに気を遣うように、先生はおっしゃいました。このときすでに、先生の心証は「麻原さんは本当に病気ではないか」という方向で、固まりつつあったのだと思います。しかし父が、「弁護士」という職業に就く方全般に対して、不信感を持っている可能性は確かに否定できませんでした。その理由は、次回書くことにします。

なぜ、父が「弁護士」に不信感を抱く可能性があったのか?

1996年10月18日、第13回公判時のことです。この日、検察側証人に立ったIさんの反対尋問を弁護人が行おうとしたところ、父は「反対尋問をしないでくれ」と言い、”弁護側”の反対尋問を制止したのです。Iさんは父に対して、攻撃的な「証言」を行っており、もしここで反対尋問をしなければ、Iさんの「証言」がそのまま事実として認定されてしまいます。弁護側は裁判所に休廷を申し入れ父と話し合おうとしましたが、裁判所は認めず、結局反対尋問が続行されました。弁護人としては、攻撃を甘んじて受けようとする父を、当然放ってはおけなかったのでしょう。

11月になると父は精神的にも崩壊し、弁護人は父と接見もできなくなっていきました(安田好弘著:『「生きる」という権利』参照)。

控訴審の弁護人は、まさに父が、「弁護士」というもの全般を、自分の意思で拒否している可能性を危惧したのです。しかし、父と会話が成り立たない以上、病を装っているのか、弁護士全般を忌避しているのか、あるいは本当に病気なのか確かめるすべはありません。

弁護人は八方ふさがりの状況に追い込まれました。

子どもに確かめてもらうしか……

それを確かめる有効な手立ては、第三者を面会させることです。しかも、父との関係が深ければ深いほどいい。

あるいは、先生はいつもわたしたちの心情を思いやってくださるので、ご自身がようやく接見できるようになったことから、今なら子どもたちも接見できるかもしれないと考えて下さったのかもしれません。ある日、先生からわたしと姉に、

「お父さんと接見したい? 裁判所に接見禁止一時解除を申し立てたら、もしかしたら面会できる可能性がある。もちろん、大丈夫とは言えないけれど。接見禁止解除を申し立ててみようか?」
と聞かれました。

わたしにとって、”生きる”ことそのものが、大変なことでした。つらいことがあっても、くじけそうになっても、いつか父と会えるだろう、いつか話ができるだろうということだけを希望に、生きてきたようなものです。

目立ちすぎるという理由で裁判の傍聴に行けなかったわたしは、それまで裁判で父の姿を見ることさえ許されませんでした。姉から聞いた話によると、裁判の傍聴へ行っても、父を取り囲む刑務官たちによって、父の姿はほとんど見えなかったそうです。それでも、ほんの少しでも父の姿を見られた姉を、うらやましく思っていました。もし接見ができるようになれば、父の逮捕後はじめて姿を見ることになります。

「是非会いたいです。よろしくお願いします」
と、即座にお願いしていました。

少なくとも判決確定までは父と会えないだろう、とあきらめていたわたしたちにとって、本当にありがたい、奇跡のようなご提案でした。

「まさか……」 ふくれあがる不安

2004年8月17日、まず姉が、家族ではじめて父と接見できました。弁護人が父と一切意思疎通できなかったため、姉から父に弁護人選任の経緯などを説明することになりました。弁護人から姉は、「おそらく、あれは詐病じゃない。本当に病気だ。宇未ちゃんが行っても、わからないかもしれない。覚悟しておいたほうがいい」と覚悟を求められたそうです。

とはいえ、そういうお話があったにもかかわらず、わたし同様、姉も父が病気だとは信じていませんでした。姉接見後はわたしが、続いて他の妹弟も接見できるようになりました。
接見の際には必ずノートを持参し、記録を取ることを心がけました。

接見ができるようになった当初、父との再会を待ちわびていたわたしたちは、話したいことがたくさんあったため、ひたすら父に話しかけ続けました。父は相づちを打ち、笑い、わたしたちの話を聞いてくれているように思えました。しかし、話し続けるうちに、父はわたしたちなど認識できていない。ただ、脈絡もなく笑い、相づちのようにとれる”音”を発しているだけではないか。弁護人の先生の言うとおりなのではないかという不安がわいてきました。接見を重ねるにつれ、その違和感と不安は急激にふくれあがっていきました。

意味がある相づちか、単なる音か

わたしにとって4度目の接見のとき、父の発する音が相づちなのか、あるいは何の脈絡もないものなのかを確かめるため、わたしたちは接見途中に、一つの試みをしてみることにしました。接見終了までの9分間、沈黙したのです。

沈黙するわたしたちの前で、父は突然笑い、一人「うん、うん」「えやいん。うん。えんん」と音を発し続けました。

その次の接見時、わたしは最初から刺激がなければどうなるのだろうと思い、「おはようございます」とだけ言い、黙って父の様子を見守りました。わたしが黙っているあいだに父が相づちのような音を発し始めれば、それは脈絡も意味もない「音」になってしまいます。

拘置所は父が意味のない「音」を発していることを、悟られたくなかったのでしょう。話をしなければ、接見を打ち切ると通告してきました。

しかし、しゃべり続ければ、必ずどこかの時点で「うん、えん、いん」という相づちのような音が重なり、「家族と意思疎通ができている」とうそをつかれてしまいます。

その後の接見でも、わたしたちは話しかけたり沈黙したりして、父の様子を見守りました。やがて、わたしたちは、父が発する相づちのような音に、何の脈絡も、意味もないことを悟りました。

理性の片鱗を探して――

沈黙するわたしたちの前で、父は20分も30分も、ただ一人脈絡もなく相づちのような音を発し続けていたのです。――それでも、わたしたちは懸命に、父の中の理性の片鱗を探そうとしました。

しかし、姉やわたしのみならず、父が成長を見たかったであろう弟たちに対しても何の反応もないのを見て、わたしたちは自分をごまかせなくなりました。

父にとって、わたしたちは空気と同じでした。接見に来たことにすら、気づいてはもらえませんでした。ひとりうなずき、ひとり笑い、ひとり苦しみ、けいれんを起こし、ひとりうめく。物理的にはアクリル板を挟んで50センチぐらいしか離れていないのに、父はあまりに遠い世界に行ってしまっていました。

父といつか会い、話すことを支えに生きてきたわたしにとって、父が重篤な病気であるという事実は、絶望的な現実として眼前に突きつけられました。

父を”診断”した裁判所

控訴審の弁護人は、接見が可能になって以来、父の状態について裁判所に報告していました。しかし裁判所は、関心を持たないか、無視をしているように見えたそうです。

弁護人は、裁判所に接見時の状態を報告するだけでなく、精神科医が作成した意見書を添付し、精神鑑定と、公判手続き停止の申し立てを行いました。意見書は2004年10月26日付け、11月5日付け、12月10日付けの合計3通を提出しました。内容は、「精密検査と治療の必要性」を指摘したものだったそうです。

しかし、裁判所は医師の意見書も無視し、同年12月10日、控訴審の須田裁判長含む裁判官2名と書記官が東京拘置所を訪れ、「控訴趣意書提出に関する手続き教示」と称して、父と面会しました。

以前弁護人に聞いた話によると、このとき父が乗った車いすは、失禁して床を汚す恐れがあるため、マットを敷いた上に置かれたそうです。失禁とは、小便あるいは大便などを自分の意思によらず排泄してしまうことをいいます。つまり、父は排出のコントロールすらできないという前提の元で、裁判長から「手続き教示」を受けました。

家族であっても、父とは一切の意思疎通が不可能なのです。裁判長とだけ会話が成り立つ道理がありません。

しかし裁判所は、父が相づちのような音を発することをもって、父が「受け答え」をしたことにしました。相手が理解しているかどうかを確かめられない以上、それを受け答えと断定することはできません。にもかかわらず、裁判所は父が「手続き教示」の内容を理解しているようだったと、つまり正常であると、”診断”をしたのです。

※弁護人の活動や裁判所の対応などは、「獄中で見た麻原彰晃」(インパクト出版)の「麻原彰晃氏控訴審の経過概要」を参考にしました。

人の方を向くと受け答えができたことになる?

裁判所は父が相づちをして会話が成り立ったとする以外にも、父が裁判所側の列席者の紹介をされる際、そちらの方を見るという「受け答え」をしたと主張したと聞いています。ゆえに、盲目という印象は受けなかったと。

父は全盲です。父の身辺で介助し、生活を助けてきたわたしからすると、父に視力があるというのは、空想にすぎません。勝手に父に視力があると決める裁判所は、医者なのでしょうか。検査をしたり、長い間父を見たりして、視力の有無を正当に判断したのでしょうか。

そもそも、ある方向を向くことを、「受け答え」とこじつける裁判所の対応に、疑念を抱かずにはいられません。

広辞苑によると、受け答えとは、「話しかけられ、または問いかけられて答えること。応答」と書かれています。何かを見ることは、日本語的には”受け答え”とは言えません。
ここまでのこじつけを行わねばならなかったところに、わたしは裁判所のあせりを感じてなりません。

さらに裁判所は、父が「弁護人」という言葉に対して、笑いで答えるというのが特徴的だったと主張したそうです。父は正常であり、意思疎通ができないのは、相手が「弁護人」だからであると、理由付けをしたかったのでしょう。しかし、家族とも意思疎通ができていない以上、それらはこじつけに過ぎません。父は,誰の前でも,どんな言葉を聞いても,あるいは何も聞かなくても,一人で脈絡もなく笑い,相づちを打ち続ける状態なのです。

憲法の原則に反してまで

これまでお伝えしてきたように、裁判所の父との面会は普通の手続とは異なったものでしたが、他にも普通と異なることがありました。

それは、この「手続き教示」が弁護人にも知らされないまま行われたという点です。憲法は、裁判を公開の法廷で行うことを原則としています(憲法第82条)。弁護人は父の訴訟能力を争っていた以上、訴訟能力があるかないかの心証形成は、公開の法廷で行われなければならないと思います。

裁判所は自分たちがやっていることが、正当な行動とは思っていなかったのでしょう。彼らは父とこっそり会い、父が正常であり、目が見えるということにしてしまいました。

弁護人を立ち会わせてしまったら、事実に反する主張をすることはできなくなってしまいます。裁判所が、父が発する「音」をもって「理解していた」と主張しても、弁護人は、相づちのような音と話の前後関係を明らかにして、「ただ脈絡もなく、相づちのような音を出していただけである」と訂正してしまうでしょう。

よって、裁判所は密室で、自分がどこにいるかすらわかっていない父と、会わねばならなかったのではないでしょうか。
彼らは公正であるべき裁判所としての一線を踏み越えてしまいました。

この裁判所が行った父に対する「診断」は、のちに裁判所が行うことになる「鑑定」の公平さを根底から失わせるという、暴挙へとつながっていきます。

指摘されない矛盾

わたしはかねてから、不思議に思っていることがあります。裁判所も拘置所もマスコミも、父を詐病と扱ってきました。父は命が惜しくて、死刑を回避するために詐病を装っているのだ――と。

しかし、死刑を回避したいのなら、裁判所に対してはもっとも病気を装うのではないでしょうか。「鑑定人」を名乗った、西山氏に対してもそうです。「鑑定人」に心神喪失と認めてもらわずして、「詐病」を装う利益が一体どこにあるのか。

弁護人に対する拒否感があるため、弁護人と「だけ」意思疎通を「しない」のだという強弁もあるかもしれません。しかしながら、父と意思疎通が一切できないのは、わたしたち家族も同様です。それに対しては、父が家族も弁護人の手先だと思っており、よって家族とも意思疎通をはからないのだ、という主張も生じるかもしれません。

しかし、もし弁護人に「だけ」拒否感があるのであれば、わたしたち家族に、「弁護人を解任しろ」「つきあうな」「弁護士を信用するな」と言えばすむ話です。

それだけでなく、弁護人は控訴審を請け負っていたときはすくなくとも、立会人のない接見交通が認められていました。父は、
「弁護士は信じられない。解任したい。もう放っておいてくれ」
と弁護人に伝えることも可能でした。

よって、上記の主張は、理屈が通らない主張と言わざるを得ません。

また、弁護人に対する不信感を強調し、「弁護人以外とは意思疎通が成り立ち正常である」と主張するのであれば、死刑を恐れて詐病を装っているという主張は成り立たなくなります。

なぜこのような矛盾する主張が、平然と通ってしまうのか、わたしには理解ができません。「麻原」が相手であれば、何でもありということなのでしょうか。

密室

一審の裁判の初期から、父はすでにおかしくなっていました。それは先入観を抱かずに、父の様子を見れば明らかだったと思います。

日本語を話せない父。何かしゃべっても意味の通らないことしか言えない父。裁判所の命令に従えず、強制退廷させられる父。1人うなずき、独り言を言い続ける父――。

そう、父は”公開”の法廷において、弁護人のみならず、裁判官とも意思疎通を成り立たせることは不可能でした。父は裁判官の命令に従うことができずに、幾度となく強制退廷させられてきました。

一方で、”密室”で第三者の目がなく、いかようにでも記録を捏造できる場面において、父が「正常である」という”証拠”のでっち上げが行われて来ました。

「手続き教示」と称した裁判官による父との面会、西山氏による「鑑定」、東京拘置所内での「言動」、東京拘置所に作成された虚偽の「接見記録」。

控訴審において、マスコミが父の「詐病」を謳い、「正常」だと報道した情報はすべて密室で作成されたものです。

公権力が証拠のでっち上げをするのは、決して珍しいことではありません。特に取り調べなどの「密室」では、どのような証拠もでっち上げられてしまう。古くは、血痕のねつ造まで行われて死刑判決を出された財田川事件や松山事件、最近では主任検事証拠改ざん事件など、権力による証拠のねつ造は枚挙にいとまがありません。

しかし、父の場合、公平であるべき裁判所までが「密室」状態をつくり、証拠のねつ造まで行ったところが、より悪質だといえるでしょう。

治療して欲しいという思いが……

2004年12月20、裁判所が「手続き教示」と称して父と面会し、父が正常とこじつけようとした10日後――わたしたちは、父が病気であると、記者会見しました。

問題は、精神科医の意見書を無視し、医者でもないのに「診断」する裁判所だけではありませんでした。東京拘置所もまた、わたしたちが接見したときの「記録」を、わたしたちが父と意思疎通ができているかのように創作し、裁判所に提出していました。

わたしたちには、もう黙っていることはできませんでした。沈黙すれば沈黙するだけ、さまざまな虚偽の事実をねつ造されていくことは、火を見るより明らかでした。

父は詐病ではなく、おむつを着けられ排泄すら自分でコントロールできない、重篤な病人です。本当のことを公にして、治療をしてもらいたいと思いました。家族としてそれぐらいしか、病気の父を治してもらう手立てを思いつくことができませんでした。

このままでは、父は政治的に「正常」と扱われ、治療もまともな裁判も受けられずに、抹殺されてしまいます。

――ところが、記者会見の直後、東京拘置所による接見の妨害や嫌がらせがはじまりました。父の状態を外部に発表したことが、許せなかったのでしょうか。

精神科医の意見書

記者会見を行ったあとも、裁判所は当然のように、父の状態について無視をし続けました。
「麻原さんは明らかに病気だ。しかしこのままでは、麻原さんが病気だという事実も抹殺されてしまう」
弁護人の危惧はもっともでした。裁判所も拘置所も、本来の役割を逸脱し、はばかることを知りません。

しかし裁判官が医者ではないのと同様、わたしたちも医者ではありません。素人が「病気だ」と騒ぐよりも、精神科医の先生に父と面会した上で診察していただき、意見書などを書いていただいた方が、説得力は増します。

弁護人は必死になって精神科医を探し、「麻原さんを見てほしい。見た上で、詐病と感じるならそれでもいい。思ったことを意見書として書いて欲しい」と頼みました。

2005年7月29日、弁護人は第二次公判手続き停止申立を行いました。
申立に際して、精神科医2名による、意見書と補充書あわせて5通を提出しました。意見書では、「重篤な拘禁反応で混迷状態にある。訴訟能力なし。治療により治療可能性あり」という指摘がなされたようです。

8月19日、弁護人の動きが目障りだったのか、またもや裁判所が動きました。前代未聞の、前提つきの”鑑定”が行われることになったのです。

※弁護人の活動や裁判所の対応などは、「獄中で見た麻原彰晃」(インパクト出版)の「麻原彰晃氏控訴審の経過概要」を参考にしました。

闇の”西山鑑定”

2005年8月19日、東京高裁は、弁護人の申し立てた公判手続き停止申立に対し、「職権発動せず」と決定しました。この場合の「職権を発動せず」とは、弁護団の申立を取り合わないということです。

しかし同時に裁判所は、前代未聞の、「訴訟能力を有するとの判断は揺るがない」と前置きをした上で、「慎重を期して、事実取り調べの規定に基づき、鑑定の形式により精神医学の専門家から被告人の訴訟能力の有無について意見を徴することを考えている(8月19日東京高裁第10刑事部配布書面より)」と主張しました。

「判断は揺るがない」という前提をつけたのは、明らかに裁判所がまともな鑑定など望んでいないことを示していました。裁判所は鑑定が始まる前から、”鑑定人”に明白に圧力をかけたのです。

弁護人が次々に提出してくる、精神科医の意見書を黙殺するためには、裁判所の主張を追認してくれる、御用学者が必要だったのでしょう。

※弁護人の活動や裁判所の対応などは、「獄中で見た麻原彰晃」(インパクト出版)の「麻原彰晃氏控訴審の経過概要」を参考にしました。

刑事訴訟法を無視? まさか……

裁判所のなりふり構わないやり方に危機感を覚えた弁護人は、裁判所に、「鑑定の形式」につき、刑事訴訟法上の鑑定の規定に基づいて、公開の法廷での鑑定人の宣誓、鑑定人尋問等を求める書面を提出しました。

しかし裁判所は、裁判所側鑑定人として選んだ精神科医の西山氏に、”非公開”で宣誓させ、刑事訴訟法の「鑑定」の規定に基づく、鑑定人尋問も行いませんでした。

しかもこの情報が弁護団の耳に入ったのは、後日のことです。裁判所は後ろめたかったのか、非公開の宣誓等を、密室で、弁護人にも知られないようにこっそりと行ってしまったのです。
この話を聞いたとき、弁護人があぜんとしていたのが忘れられません。

弁護人は西山氏が”鑑定人”として選任されたあとも、さらに、3人目の精神科医による意見書要旨1通と、4人目の精神科医の意見書を、裁判所に提出しました。

裁判所のやり方から見て、精神科医としてほこりを持った、まともな”鑑定人”が選ばれている可能性は、ほとんどありませんでした。弁護人にできることは、できるだけたくさんの精神科医に父を診せ、意見書を書いてもらうことぐらいでした。できるだけ広く、公正な意見を集めたかったのだと思います。

※弁護人の活動や裁判所の対応などは、「獄中で見た麻原彰晃」(インパクト出版)の「麻原彰晃氏控訴審の経過概要」を参考にしました。

後編に続く


編集部より:この記事は、著述家、カウンセラーの松本麗華氏の公式ブログ「お父さん分かりますか?」 2015年5月16日の記事を転載させていただきました(アイキャッチ画像は1990年衆院選出馬時の政見放送より)。

オウム真理教事件から22年。事件の被害者は6583人(2010年の警察庁認定時)にのぼり、サリン事件などの後遺症に苦しむ大勢の方がいます。その一方で、加害者の家族、特に事件当時に未成年であった松本智津夫死刑囚の子どもたちもまた波乱万丈の人生を歩んできました。アゴラではこれまでも当事者による発信を通じて、マスコミとは異なる言論空間を作ってまいりましたが、松本麗華さんのブログ掲載を通じて、犯罪をめぐる社会的議論が多角的な視点で行われる一助になればと考えます。