人には恐れがある。一つは神の目であり、もう一つは自身の良心だ。神を信じる人々にとって神の審判が最も恐ろしい。悪事を重ねた場合、誰に知られなくても、良心が痛む。神の目を否定し、良心を隠蔽したとしても、その痛みは消えない。
ところで、聖職に従事している人々が検察当局に訴えられ、被告席に座って裁判の判決を待つ身となるケースが最近、増えている。
今月18日、2件、バチカン関係者の公判が開始される。1件はローマ法王フランシスコが2014年2月に新設したバチカン法王庁財務事務局ポストの責任者に抜擢した前オーストラリア教会最高指導者ジョージ・ペル枢機卿が同国の検察所から未成年者への性的虐待容疑で起訴されたのだ。枢機卿はバチカンの職務を休職し、既にオーストラリアに帰国しており、メルボルンの裁判に出廷して自身の潔白を表明するという。同枢機卿の未成年者虐待容疑は既に数年前からくすぶっていたが、同枢機卿はその度に、「私を中傷する目的であり、全く事実ではない」と強く否定してきた。同枢機卿の容疑については、このコラム欄で数回紹介済みだ(「ローマ法王の『任命責任』」2017年7月2日参考)。
もう1件はバチカンのお膝元で18日、 ローマのバンビーノ・ジェズ小児病院の件で法王庁児童病院基金の責任者2人が基金の資金を目的外に使用した疑いで裁判を受ける。具体的には、同基金の会長と財務担当者が病院用の資金40万ユーロ以上をタルチジオ・ベルトーネ枢機卿の住居改築に使用した疑いがもたれている。同枢機卿は前法王ベネディクト16世時の国務省長官だった高位聖職者だ。
バチカン検察局が13日、公表したところによると、 ベルトーネ枢機卿自身は児童病院基金が自身の住居の改築に使われたとは知らなかったと弁明している。
一方、フランスののローマ・カトリック教会リヨン大教区のフィリップ・バルバラン枢機卿への未成年者への性的虐待容疑の捜査が停止されたという。フランス教会司教会議が明らかにし、バチカン放送が13日、報じた。
同枢機卿への容疑はリヨン大司教区での聖職者の未成年性的虐待事件を隠蔽し、警察当局に通達しなかったという疑いだ。
2人の神父が未成年者への性的虐待を犯したのは1970年と90年代だった。バルバラン枢機卿がリヨン大司教区に就任する前だったこともあって、責任はないというわけだ。
ちなみに、社会党政権時代のマニュエル・ヴァルス 首相はバルバラン枢機卿の辞任を公共の場で要求したことがある。それに対し、フランシスコ法王は昨年5月、インタビューの中で同枢機卿を擁護し、聖職者の性犯罪問題でも必要な対応を実施してきた聖職者だと証している。
バチカン関係者が絡んだ2件の公判が18日に始まり、もう1件は検察側が起訴を断念したケースだ。それにしても、バチカン関係者や高位聖職者の裁判問題が話題になることは一昔前は考えられなかった(前法王ベネディクト16世時代、聖職者の未成年者への性的虐待事件が次々と暴露されて以来、カトリック教会は世界各地で多くの裁判問題を抱えている)。
神の「審判」を恐れる聖職者はこの世の裁判の「判決」を恐れないが、裁判所の判決を恐れ、神の目を恐れない聖職者が出てきた。神を見失ってしまった聖職者たちの台頭だ。被告席に座る聖職者の姿はもはや珍しくなくなってきたのだ。
編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2017年7月16日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。