『消えた都道府県名の謎 (イースト新書Q)』というマニアックな本を出したら好評だったので、姉妹編で 『消えた市区町村名の謎 地名の裏側に隠されたふるさとの「大人の事情」』 (イースト新書Q)を刊行した。
ともかくマニアックな本だ。日本には1,718の市町村が存在する(2017年現在)。しかし、現在の市町村の枠組みがスタートした明治中期には、約15,000もの市町村がひしめき合っていた。
明治、昭和、平成の大合併を経る過程で、各地で賛否両論があり、その名は場当たり的な「大人の事情」によって決定づけられていく。たった4日で消滅した市、合併で村に“降格”されてしまった町、藩の中心だったのに合併されてしまった市町村など、市区町村名にまつわる雑学を展開している。
以下、書きながら気がついたいくつかの面白い視点を提供しておく。
市町村名は漢字が普通です。現在はカタカナだけの地名はニセコ町だけだ。平成の大合併では平かな地名が増えた。しかし、文章のなかに埋没するので良くないと思う。漢字で書いても意味不明のものが多いのは二つ理由がある。ひとつは、万葉仮名的な当て字が多い。もうひとつは、合成地名だ。蒲田区と大森区を合併して大田区になったので大田には意味がないといった具合だ。かつて、長野県に読書村があった。与川、三留野、柿其の三村合併で一字ずつ取ったそうだ。
群馬県には東(あずま)村が五つもあった。ヤマトタケルが亡き妻を偲んで言った『吾妻はや』に基づいている。方角と関係ないことは西村がひとつもなかったことで分かる。
藩というのは江戸時代には存在せず、明治2年の版籍奉還によって創設された。明治4年の廃藩置県のときに261藩があったが、そのうち、135藩の名前が市町村名に残っています。城持ちが原則になる131藩についてみると93藩です。10万石以上では、大泉、忍、高田、松代、大聖寺、淀、豊津、厳原が消えてます。大泉とか豊津藩は知らない人も多いだろう。
明治22年(1889年)に市制が誕生したときに市となったのは36市。そのうち現在残っていないのは、赤間関市だけだ。知らない人も多いだろうが、下関市のこと。だから日清戦争の和平会談のときは赤間関だから下関条約というのはおかしいわけだ。赤間関は略して馬関といい、そこで、中国語では馬関和約とかいう。
全国各地で旧市内という言い方がある。なにを基準にしているかですが、私の感覚では昭和になってからの合併地域を除いた範囲だと思う。たとえば、東京では、新宿区の西半分は内藤新宿町や淀橋町、高田村などでした。渋谷町は人口10万人を超えて全国22位の人口だった。これらが東京市に入ったのは昭和7年(1932年)です。京都では伏見市、深草、山科、上賀茂、嵯峨、太秦、桂などが合併されたのが昭和6年(1931年)だった。