綺麗ごとと現実の狭間

中村 祐輔

ある芸能人が、奄美空港で半身不随の乗客が自分でタラップを登らされたことに対して、「『手で上がって行くのを見てらんないじゃん』と再度訴え、航空会社側が『分かりました。規則ではダメだけど、上げますから。内緒にしてくださいね』というルール違反をなぜできなかったのかを疑問視」と出ていた。じっと見守っていた職員に良心がないとまで言及していた。この件で、航空会社が一斉にメディアに叩かれていたが、会社の対応は褒められたものではない。しかし、現場の職員にとっては、現実は単純ではないと思う。

今では、ドクターヘリや救急車に医師が同乗することは、日常のこととなったが、私が救急医療医として勤務していた頃は(約40年前に大昔の話だが)、医師の救急車の同乗は行われていなかった。私は当時の上司に「同乗して、現場で治療を開始できれば、救命できる可能性が高まる場合もあるので、OKですよ」と言ったところ、「救急車が事故を起こして、君が外傷を負ったり、それによって後遺症を残した場合の補償制度がないので駄目だ」と言われたことを覚えている。使命感や正義感と現実にはギャップがあるのだ。

上記の奄美空港の場合、人(同行者や職員)が抱えて乗客を引き上げる時に、何らかの事故があった場合、あるいは、職員が腰などを痛めた場合に誰が保証してくれるのかも定かではないのに、安易に規則を冒してでも助けるべきだというのは綺麗ごとに過ぎないと思う。規則違反の行為をした場合、当然ながら会社は規則違反を盾に、個人の責任とするだろうから、職員は乗客にけがをさせても、自分が負傷しても、自分で責任を負わねばならない可能性が高い。

メディアを通して無責任な発言をする人は、規則に従った人がメディアの攻撃によってすでに心を痛めていることに思いが及ばないのだろうか?飛行機や電車などで、医師の呼び出しに稀だが遭遇する。医者だから、それに応じるのが当然だろうと、多くの人が思うだろう。

1年ほど前に、日本に帰国途中、「乗客の一人が、血圧が上がって薬を服用したが、血圧が下がらず、頭が重いと訴えているが、何かアドバイスがありますか」とCAから尋ねられた。「様子を見ましょうか」と言ったが、「外国人の方で、日本語も英語も通じないので、とりあえずアドバイスを」というので、「意識レベルなど問題がないなら、機内温度が少し低いように感ずるので、とりあえず体を温めて様子を見てください」と返答した。しかし、機内での対応は、正直なところ、かなりのストレスなのだ。

1時間ほどして、CAが「体を温めたら、血圧も下がり、落ち着いています。ありがとうございました」と言われ、一安心して眠りに落ちた。しかし、もし、さらに悪化していたなら、どうなったことかわからない。機内で呼び出された医師が、誤診をしたと、後日訴えられたケースがある。診察もままならない機内で、医師としての使命から最善を尽くしても、このような事態に陥るリスクがあるのだ。場合によっては、緊急着陸の指示を出さなければならないが、もしそれが、太平洋上なら、責任も重大だ。医師であれば診察するのは当然だと、綺麗ごとを言うのは簡単だが、限られた条件下での現実は厳しいのだ。

正義を振りかざすのは簡単だ。しかし、テレビで「ルール違反をなぜできなかったのか」と非難するのは、あまりにも無責任だ。ルール違反を指摘されて処分されたり、前述のように乗客・職員のいずれかが負傷した場合、彼が責任を取るというのか?こんなに軽々しく他人を責める風潮はおかしなものだ。何か些細なことでも、鬼の首を取ったように皆で責め立てるのはどうかと思う。確か、その芸能人の奥様は線路に立ち入って写真を撮り、さんざん責め立てられたのではなかったのか?奥様の受けた批難を慮れば、周りで見るという選択しかできなかった職員に対して、もっと言葉を選んでもよかったのではなかろうか?


編集部より:この記事は、シカゴ大学医学部内科教授・外科教授、中村祐輔氏のブログ「中村祐輔のシカゴ便り」2017年7月24日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。