日本ではいよいよ総選挙がスタートした。希望の党の小池百合子氏が都知事を辞めて立候補するかどうか、日本中の注視が集まっていたが、どうも立候補しないようだ。確かに、都知事を辞職すれば大きな批難が巻き起こっていただろうが、ここまで来て立候補しなかったのは戦略ミスのように思う。政権選択選挙を謳いながら、勝利した場合の総理候補の顔が見えないのは、どうみても迫力に欠ける。誰に日本を託すのかが、ピンボケのまま、政権選択を迫るのはどうかと思う。選挙公約も綺麗ごと過ぎて、財源などを含め、実現性に問題がありそうだ。かつての民主党に騙された経験があるので、懐疑的な気持ちになって、あの時のような熱気が伝わって来ないような気がする。
それにしても、「安倍一強を倒す」というスローガンはお粗末だ。確かに日本人は強力なリーダーシップを嫌う傾向にあるので、なんとなく強い人物を倒すというと、情緒的には訴えるものがあるのかもしれない。しかし、私など「一強のどこが悪いのだ」とつい言いたくなってしまう。倒した後に、どうするのかも言わずに、政治家が務まれば、気楽なものだ。会社でもそうだが、先見性のあるリーダーが強力な力を持つことがプラスに作用すると思う。森友・加計問題など、情緒的で、何が国を揺るがす問題なのか、よくわからない。国内政治の混乱下で、北朝鮮に何かがあれば、どうするのか、野党の考えが見えて来ないのは、おかしくないのか?内部抗争に明け暮れれば、組織の力は削がれるし、仕事のできない人ほど社内政治に注力し、組織はどんどん劣化していく。私がかつて在籍していた所は、まさに、その典型で劣化が止まらない。
1年ごとに総理大臣が代わっていた頃、日本は世界の表舞台から取り残され、国際的な地位は明らかに地盤低下していた。米国に来て6年近くになるが、この間、日本の存在感はいい意味で増してきたように思う。そして、左翼系メディアの報道を目にするたびに、この記事を書いた人は、どこかの国に魂を売ったのではないかと思いが強くなる。
トランプ大統領は個人的には好きではないが、国旗・国家に敬意を払わないフットボール選手を批判した点に関しては賛同だ。ペンス副大統領も、フットボールの試合を観戦しに行ったが、選手たちの国に敬意を払わない姿勢を見て、スタジアムを後にした。私は「日の丸」を見上げ、「君が代」を耳にするたびに、日本人としての誇りを感ずる。2000年間の日本人としての歴史の重みに、日本人としての責任を覚えるのだ。「では、なぜ、米国に住んでいるのか」と聞かれれば、思うところはあるが、結局は、「ごめんなさい」としか言えない。でも、何が起こっても、日本という国が好きなのだ。
国に誇りを持たない人たちに、日本という国の将来を託するのは間違いだ。国旗を蔑ろにし、国歌を傷つける人たちが、日本に責任を持つことなどできるはずがないと思う。
編集部より:この記事は、シカゴ大学医学部内科教授・外科教授、中村祐輔氏のブログ「中村祐輔のシカゴ便り」2017年10月10日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。