戊辰戦争で井伊は官軍に立って徳川と戦った

八幡 和郎

「女城主 直虎」は、「井伊家は250年に渡って徳川の天下を支え続けた」というナレーションで終わった。

ところが、実は、戊辰戦争では彦根藩はいちはやく官軍に与して徳川と戦ったのである。幕末維新の華麗なる主役は王政復古の中核となった西南雄藩であり、敵役は佐幕を貫き通した奥羽列藩同盟に参加した会津などである。

しかし、こうした主役や敵役よりも大勢をしめる迷える子羊たちこそが本当の主役だった。彼らは、勤王の論理が正論であること、幕府には恩義があること、自藩の存続繁栄が現実問題としては最も重要であることなどの間で揺れ動きつつそれぞれ結論を出していったのである。そのあたりを『井伊直虎と謎の超名門「井伊家」』 (講談社+α文庫)にも書いたので紹介したい。

井伊大老が桜田門外の変で暗殺されるまでは、彦根藩は歴史の主役だった。「花の生涯」といわれる直弼の時代が突然の終止符を打って名門井伊家の中央政界での活躍は終わり、時代の奔流の中で汚名を着せられる羽目になった。しかし、そうした受け身の立場の中で彦根藩の決断は意外に重い意味を持つのである。

藩主が暗殺されたときには、お家断絶が原則である。しかし、そんなことをすれば水戸藩と彦根藩の全面戦争になりかねないので、老中・安藤信正らが直弼は一命を取り留めたことにして、のちに病死したという建前を採ったことはすでに書いた。

この時、嫡子の直憲は13歳だった。だが、島津久光らによる事実上のクーデターで一橋慶喜や松平春獄らの政権が成立すると、通商条約を無断締結したり桜田門外の変での横死を隠したことは不届きであるとして、10万石の削減と京都守護解任などの処分を受けた。藩内でも長野主膳が藩主を惑わせた罪で粛清されるなど新しい時代における幕府の方針の中でなんとか活路を探るしかなかった。

彦根藩は幕閣で名門にふさわしい扱いを受けることもなく、横浜や大阪湾の警護、天狗党征討などに次々とこきつかわれ、第二次長州戦争では旧式の装備もあって芸州口で惨敗した。現職の将軍家茂擁立の第一の功労者へのこの冷たい仕打ちに彦根藩の幕府に対する気持が冷めていったのも当然であろう。

大政奉還ののちは、いち早く勤王の立場を取り、早くも11月8日に藩主直憲自らが上京しているが、これは、薩摩、広島、尾張、越前といったところと同列である。王政復古ののちも積極的に新政府支持を表明し、岩倉具視をして「彦根藩の勤王宣言は、たとえ嘘でも(本心でなくとも)」たいへん大きな意味があると喜ばせており、全体の流れを作る上で大きな功労があった。彦根の方でも、南北朝時代に井伊道政が宗良親王を擁して遠江奥山城で北朝と戦ったこと、藩祖直政以来、京都守護職として皇室を守ってきたなどを持ち出し、勤王の藩であることを強調すること尋常でないほどだった。

鳥羽伏見の戦いでは戦闘に加わらなかったものの大津で東海道方面からの幕府軍の来襲に備えた。このことも、大久保は「よほど奮発したもので、是非とも実行を上げて罪を償おうということである。実に世の中は意外なものである」、「彦根が官軍に属したので、近江の道は関ヶ原まで開け、しばらく大坂の道が絶えても差し支えることがない」と鹿児島に書き送り彦根藩の決断が重い意味を持っていることを喜んだ。桑名藩の制圧、小山・宇都宮での戦闘、会津攻めなどにも積極的に参加した。

特筆すべきは近藤勇の逮捕である。4月2日、下総流山付近に一団の兵が屯集しているとの報せがあり向かったところ、隊長の大久保大和と称するものが大砲三門、銃118挺を差し出した。この大久保が近藤勇だったわけである。このとき近藤は名を偽って運を天に任そうとしたのだが、彦根藩士・渡辺九郎左衛門が正体を見破り越ヶ谷、次いで板橋に護送しここで処刑となった。

そして、賞典禄も2万石というトップクラスの処遇を受け、戊辰戦争の翌年の1869年には藩主直憲は有栖川宮熾仁親王の王女と結婚するなど、戊辰戦役における彦根藩の功績はあらゆる意味で高く評価されたのである。

ところが、爵位授与の際に、決して井伊大老に対する恨みというわけでなく非公開の内規を機械的に適用しただけなのだが、石高からいえば侯爵となれそうなところを伯爵とされた。さらに、県庁所在地も大津に取られたということもあり、官軍に協力したことが何だったのだろうかという思いから彦根では佐幕的な気分が強くなって現代に至っている。いま、彦根の市民たちに、戊辰戦争で井伊藩が官軍の先頭にあって大手柄を立てたと話すと驚く人がほとんどである。「会津と一緒じゃなかったんですか」という人もあるほどである。このあたりがなんとも正しい歴史認識の難しさを感じさせるところなのである。

爵位の決定にあって、戊辰戦争で官軍であったかどうかなどは考慮されたかどうかだが、桜田門外の変とか老中としての不始末などについては幕末の手で石高が減らされ、戊辰戦争についても1869年の処分で控え目な減封がすでにされており、この新しい領地を前提に計算がなされたというだけのことである。

安政の大獄などのために冷遇されたと世間で受け取られている井伊の場合は、こういうことである。しばしば35万石といわれたが、実は5万石は天領からの預かり米であって計算には入らない。さらに、桜田門外の変などの責任を取らされて文久年間に20万石とされている。これに相応する実収入だと9万石余りにしかならず、箸にも棒にもかからなかったのである。30万石を前提に計算しても侯爵にはなれなかったかもしれないくらいである。これらのケースはいずれも、爵位を決める際に恣意的な手心が加えられたのでなく、計算の前提になる領地が減らされていたことの反映に過ぎない。

戦後の井伊家の当主であった彦根市長・直愛の双子の弟である井伊正弘氏(元彦根城博物館館長)は、「私の父は、要するに直弼が暗殺され、井伊家は国賊だという扱いを受けていたわけで、だから本来なら侯爵になるところを伯爵という格下げみたいな形になったわけでしょう。だから父は世間に出ていくことを嫌って、能に打ち込んでいたのではないかと思うんです」と語っている。しかし、ここまでに書いてきたように、この説明は事実に反する。

ただ、平家の落人伝説と同じで、自分たちが満ち足りないのは戦いで負けた、あるいは、政治的な敗北がゆえであるせいなのだという繰り言がもっともらしく聞こえるのでそういう説明が後を絶たないのである。先に書いた廃藩置県をめぐる問題でもそうであるが、代々語り継がれることによって本当らしくも聞こえてくるのだから余計に困るのである。

しかし、全般的な印象としては、明治維新は反抗しかねない敗者たちにはむしろ十分すぎるくらいに寛容だったが、新時代の実現に貢献した幅広い人たちのうち、 薩長土肥や公卿たち以外については報うことが薄かったことを痛感するのである。

井伊直虎と謎の超名門「井伊家」 (講談社+α文庫)
八幡 和郎
講談社
2016-11-18