社会を覆う閉塞感は、勉強しない学歴男性と退屈な教育のせい

高橋 大樹

内閣府ホームページより

高等教育の無償化は女性の不利な立場を固定化させないか

内閣府は社会の閉塞感を打破する手段として、人工知能(AI)やロボットや自動走行車などの活用を挙げ、その目指す社会をSociety 5.0と呼んでいます。

テクノロジーはうまく活用してほしいですが、この下図ではなにか新しそうなものを並べてごまかされかねないというか、そもそも閉塞感の原因についてはどう考えているのだろうと疑問に感じてしまうのは、私だけでしょうか。

内閣府ホームページより

また内閣府はほかにも、高等教育の無償化と女性の活躍促進を政策としてかかげています。前者は格差の固定化の解消をねらいとするものですが、むしろ格差や女性のこれまでの不利な立場を固定化させてしまわないでしょうか。

『ライフシフト』のリンダ・グラットンは、現状では柔軟な働き方をする女性(とくに子どもがいる女性)にとって就くことのむずかしい仕事に高給の職が限られており、社会の中で男性より重いペナルティが課されていると指摘しています。

もし一般に高給の職に就くのに有利な条件が「学歴のある男性」で、高給の職に就いている男性たちの知識や考え方が社会を覆う空気に影響を与えているとしたら、高等教育の無償化は女性がより生きやすい社会の実現に、はたしてプラスに働くでしょうか。

男性たちが柔軟な働き方の仕事を見下したり、家事や育児や生活の知恵を過小評価する固定観念をもっているとすれば、高等教育を受けたところで女性の不利な立場は変わらない恐れがあります。

あるいは「高等教育を受けたアルバイト」などということで、逆に扱いにくいと判断されるかもしれません。

また不自由な勤務時間に耐え続けられる「学歴をもてる男性」が仮に増えたら、女性の立場がさらに悪くなったりしないでしょうか。

高等教育は青年期を長びかせるが、仕事につながらない

教育と仕事の関係について、「20世紀の知的巨人」「未来学者」などと呼ばれたピーター・ドラッカーは、過去と現在・未来との間にはすでに大きな変化(=断絶)が起きてしまっていると指摘しました(『断絶の時代』)。

つまり、「勉強は成人前にしかできないもの、仕事は経験によるもの」とみなし勉強と仕事を別世界にわけた過去から、「勉強は経験を積んだ成人後のほうができる科目が多いもの、知識は仕事や生活に応用する基盤」として学校を社会と統合させる時代への変化(=断絶)です。

こう考えると、いままでの高等教育の弊害がみえてきます。まず「青年期の長期化」という問題です。

一八歳ないしは二〇歳まで学校にとどめておくことは、青年期の長期化を意味する。

青年期とは、その本質からして、自らの能力と社会的に要求される行動とが食い違う時期である。

青年期とは責任をもたされることへのおそれと、権力や機会から遠ざけられていることへの不満に満ちた時期である。

前途有望な若者の多くが、大人でもなく子供でもないという青年期なる煉獄に置かれている社会

引き延ばされた青年期は、社会にとっても、本人にとっても健全な状態ではない。

また、「勉強と仕事は別世界」とする考えのために、いくら勉強しても仕事につながらないことも問題でしょう。

教育が、経済的には何の役にも立たない贅沢と見られていたことは、一般高等教育のルーツを見ればわかる。それは労働寿命の延長に応じて延長されてきただけだった。

今日の一般教養科目にしても、教育者の怠慢によって生き残った専門教育のなれの果てにすぎない。一般高等教育の発展は、意図したものではなく成り行きのものだった。

今日では、学校はあらゆる者にとって成長の場とされるにいたった。しかし、もしそうであるならば、文法の教育は生産的でないことはもちろん、適切でもない。

この「仕事は学校を終えた後のこと、仕事は経験だけ」とする教育観に立ち続けるかぎり、仕事の経験量だけでは不利な女性にとっても意欲ある低所得者にとっても、高等教育は状況の改善に貢献しないと思います。

退屈な教育で勉強しなくなり、過酷な仕事で価値観が固定化する

そもそも私たちは学校でちゃんと勉強してきたんでしょうか。いまの大人は子どもの頃に退屈なことを教えられてきた反動で、勉強しない習慣が身についているのかもしれません。

今日学生はいたるところで学校に反旗を翻している。そもそも教室で教えていることが無意味であるとしている。無意味といわれるほど深刻なことはない。

小さな子供たちまでが学校に飽き飽きしている。彼らは学校を占拠したり、バリケードを築いたりはしない。もっと強力な武器を使う。勉強をしなくなる。これが今日の子供たちがしていることである。

落ちこぼれず高学歴を得た人たちは、「退屈に耐えられる」という資質のためにそうなれたという面も大きいと思います。

落ちこぼれは社会の側の失敗である。社会が喜んで仕事を与えてくれる歳まで彼らを学校に引きつけ、とどめておけなかった学校の失敗である。生徒に対する責務という、自らの最大の責務を全うできなかった教師の失敗である。

高給の職に就く男性たちは、「時間のプレッシャーが厳しい仕事」「チームのメンバーとつねに一緒にいなくてはならない仕事」「ほかの人に代わってもらえない仕事」などのために、リフレッシュや学び直しをして固定観念から脱却する機会をもてないのだと思います。

勤務先の「企業の制度や手続き、文化や価値観」もそうさせるんじゃないでしょうか。

社会を覆う閉塞感を打破する方法

社会の閉塞感を打破する方法については、グラットンとドラッカーという新旧の経営思想家のあいだで、ある程度の意見の一致がみられると思います。

「人生100年時代」のグラットンは、「教育→仕事→引退」という古い3ステージの生き方に別れをつげることを提唱しています。思っていたより20年も長く働く可能性の高い時代には、手もちのスキルや人脈だけで活力を維持しつづけるのがほぼ不可能になるからです。

ドラッカーは、学校教育を短縮し、学歴(職歴)偏重をやめ、成人のための継続教育を発展させることを提唱していました。若者にとっては「行政学ではなくアメリカ研究」のような応用科目の方が必要で、哲学や歴史などの一般的な教養科目は経験のある成人の教育としてこそ意味があるといいます。

つまり、とるべき道は「スペシャリストからゼネラリスト」だというのです。

継続教育こそ、真のゼネラリストを生み出す場である。そこにおいてこそ、全体すなわち総体を見、哲学し、意味を問うことができる。

それはナシーム・ニコラス・タレブが「実生活+蔵書」「膨大な蔵書を持つ遊び人」と呼ぶような、読書からの知識も手がかりに生活や仕事をどんどん変えていく、発展させていける人のことを指すのだと思います。

知識とは、その本質からして革新し、追求し、疑問を呈し、変化をもたらすものだ

われわれは、学歴はないが有能で意欲ある者が通れるだけの風穴をあけておく必要がある。

学校教育を短縮し、学歴・職歴偏重をやめ、家庭や仕事での経験のある成人が何度も勉強できる継続教育の環境や機会を充実させることにより、「これまでの閉塞感を打破し、希望の持てる社会」を目指せるんじゃないかと思います。