ネットで散見される、ダメな批判10+1

よくTwitterでアンチから絡まれることがある。あとは、BLOGOSやYAHOO!のコメント欄、な。あまりにもレベルの低いものだらけで閉口することがよくあるが。実際に口を閉じるわけではなく、私はこの猖獗した時代に、言葉の散弾銃を撃つのだが。

ネットでよく見かける、批判的なコメント(主にツイート)と、それがいかに間違っているかをまとめておく。皆さんも絡まれたら、このURLを教えてやってほしい。

「あなたはこの問題の当事者なのか?」
→現代の社会のシステムを否定している。この論理では当事者が弱い立場にあればその問題は一生解決できない可能性がある。当事者だけでは問題は解決できないし、問題の本質すら見えないこともある。

‏「若者の気持ちは、若者でしかわからない」
→これは科学、学問の可能性を否定している。自分の気持ちなるものは、自分でもわからないことがあるし、捏造・偽造されることもある。

「嫌なら、見るな」
→見たくなくても目に入ってしまうのが、(オープンな)メディアというものである。また、たとえ自分が見なくても、(たとえば、間違った事実や、差別的な意味を含んだものが)放置されていることの害というものもある。

「だったら、お前がやれ」
→だから、社会は役割分担によって成り立っている。最適な役割というものもある。

「評論家や学者は批判だけして、自分で実行しない。当事者たれ」
→批判するのも仕事であり、それはそれで当事者である。

「意見を言うなら、対案を出せ」
→対案があるのが理想だが、社会にブレーキをかけるという意味では、対案はその時点で自分で考えつかなくても構わない。問題について、問題だと指摘することが大切。

「こんなに批判するなんて、親でも殺されたのか?」
→まず、家族のことについて見ず知らずの人が不用意にふれるのは失礼。世の中の家族のあり方は多様化しているし、それぞれの問題、悩みを抱えている。問題について、問題だという姿勢が必要。

「この人は、○○(たとえば、企業、職業、支持政党など)だから」
→本人を読み解くキーワードかもしれないが、それと意見を結びつけるのは慎重になるべき。

「この調査はサンプル数が少ない」
→こういう人に限って最適なサンプル数を回答できない。サンプル数だけの批判はナンセンスで方法、対象、統計的に有意かどうかなどで判断しなくてはならない。

‏「原稿、長すぎ。Twitterでまとめろよ」
→原稿の長さには、それぞれに意味がある(はず)。

最後におまけ。私に対して、毎回、ブログに自撮り写真(他人に撮ってもらっているのだが)を載せるなという批判があるが、これは完全に間違っている。どんな人が書いているのかを私なりに示す手段である。ブログに自撮り写真、これは長年ブログをやっている者にとって当たり前の流儀である。出直してきてほしい。

そして、今日、8月14日は下北沢でおっさんサミット。ぜひ来てほしい。
赤木智弘×おおたとしまさ×河崎環×田中俊之×常見陽平 日本おっさんサミット「中年はどう生きるか?」 | 本屋 B&B


編集部より:この記事は常見陽平氏のブログ「陽平ドットコム~試みの水平線~」2018年8月14日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は、こちらをご覧ください。