「頼みを断る難しさ」の原因と「自己主張をする」意味 --- 小谷 高春

When I Say No, I Feel Guilty: How to Cope, Using the Skills of Systematic Assertive Therapy (English Edition)

人の頼みを断るときに感じる「あの感覚」は何だろうか。

本書の著者がタイトルの中に「guilt(罪悪感)」という言葉を使うぐらいだから、一般のアメリカ人はそう感じているのかもしれない。

しかし日本人である私には、断わりづらいの「づらい」を罪悪感と表現することに抵抗を覚える。辞書の定義では、づらいはその動作をするのに困難を感じるという意味だから、最初の文章をすこし書き換えて、断わるときに感じる「あの困難さ」は一体、何だろうかとするとすっきりする。

著者によれば、その「困難」の原因は親子関係にあるという。彼は本書のはじめに、こう書いている。(訳は筆者による)

「幼児は生まれつき自己主張がつよい。この世に生れ落ちて最初に自分ですることは、出産時の扱いに抗議することだ!(中略)幼児は大抵、周囲の人々に大惨事をもたらすため、睡眠中を除けば、物理的に行動の自由を制限しなければならない。そのため、子供の世話だけで手一杯の親たちを助けるには、ベビーベットの発明やベビーサークル、迷子ひもやベビーシッターが必要なのだ」

そして親との会話が成り立ちはじめる頃、今度はベビーベットの柵の代わりに心理的な柵が彼らの行動の自由を制限していくことになる。

その仕組みはこうだ。親から「そんな子に育てた覚えはない」と言われた子供は、親の顔つきや口調から何か恐ろしいことが自分の身に起きると予感し、そのような負の感情(恐怖や不安、罪悪感など)を回避するため、「そんな子」にならない努力を始めるということです。

しかし著者は人間は本来、言葉による解決能力を進化の過程で獲得しており、当然ながら現代の私たちもその能力を受け継いでいるが、残念なことに親たちは子どものその発達段階を反抗として認識するために、そのような方法を使うと説明します。そして親たちも祖父母からそのようにして育てられたので、その認識の間違いに気づかないのです。

「自己主張」とは何か。それは言葉による解決能力を発揮して、日常的におきる人間関係の問題を解決していくことです。

小谷 高春(こたに たかはる)元翻訳家
沖縄県在住