カトリック信者・文大統領の「信仰」

他者の信仰をああだ、こうだと批判したり、論評することは最も愚かな試みだろう。第3者が他者の信仰世界を完全に理解できるだろうか。出来っこないからだ。その愚かな試みをここでは敢えてした。ローマ・カトリック信者の文在寅大統領の「信仰」を問うてみた。

「人権の日」に記念演説する文在寅大統領(2018年12月10日、韓国大統領府公式サイトから)

文大統領は10月18日、金正淑夫人を同伴してバチカン法王庁を訪問し、ローマ法王フランシスコを謁見した。カトリック信者としては最高の名誉だろう。ペテロの後継者であるローマ法王はカトリック信者にとって雲の上の存在だ。その法王に夫人を連れで謁見できたということは、それだけでも文大統領の信仰が神に認められた結果というべきかもしれない。

ここから本題に入る。「文大統領は本当にカトリック信者だろうか」。カトリック信者は名ばかりで神への信仰はなく、必要な時に神に声をかけ、そうでない時は全く関心がない、といった程度の内容だろうか。第3者がそれを判断できるだろうか。幸い、方法はある。「イエスの教え」から文大統領の言動を検証することだ。

人権弁護士の文大統領は大統領に就任後、「積弊清算」を標語に反日活動を、これでもか、これでもかと進めてきた。過去の過ちを反省し、悔い改めることはキリスト者として基本的な姿勢だ。文大統領の場合、民族の過失や過ちを悔い改め、内省するのではなく、過去の過ちは全て日本側にあるとして、日本の朝鮮半島統治時代を追及し、糾弾してきた。旧日本軍の慰安婦問題では少女像を駐韓国日本大使館前に設置するだけではなく、米国や欧州各地に設置してきた。

それでは「イエスの教え」はどうか。イエス曰く、「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目ににある梁を認めないのか。自分の目には梁があるのに、どうして兄弟に向かって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきりと見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう」(「マタイによる福音書」第7章)と諭している。

文大統領の言動が「イエスの教え」とは180度異なっていることが分かる。相手(日本)のちりを指摘することに奔走し、自分の目の梁に気が付いていないのだ。イエスはそのような人を「偽善者」と呼んだ。

文大統領は、少女像をサムソンのスマートフォンのように、世界に輸出している。彼は愛を輸出しているのではなく、日本への憎悪を輸出しているのだ。文大統領は「愛の宣教師」ではなく、「憎悪の伝道師」ということになる。「イエスの教え」は明らかだ。「汝の敵を愛せよ」(「マタイによる福音書」第5章)だ。文大統領は自身の敵を憎み、その憎しみを世界に広げている。

韓国出身でキリスト者の政治家、指導者といえば国連事務総長を務めた潘基文氏を思い出す。国連広報の同氏の宗教欄は無記入だった。その理由曰く「国連事務総長は中立的な立場を維持しなければならない。多数の民族、国家、宗教が集まった国連の事務トップとして自身の宗教を公表しないほうがいいと判断した」という。同氏らしい弁明だが、同氏が強調する中立主義が如何に詭弁かはこのコラム欄でも指摘してきた。テーマが日本に関連すると、文大統領を凌ぐ反日的言動を展開させたことはまだ記憶に新しい。宗教欄を無記入したのは、自身がイエスの愛の教えとは全く違う信条の持ち主であることを隠蔽するためで、中立主義を擁護するためではなかったのだ。その意味で、潘基文氏は文大統領以上に狡猾だ。文大統領は最初から中立主義とは言わない。過去の「積弊清算」であり、明確な反日だからだ(「国連の潘基文事務総長の『悪い癖』」(2013年8月27日参考)、「潘基文氏『中立性原則』違反の常習者」2015年8月31日参考)

韓国の外交官には結構、カトリック信者が多い。一人のカトリック信者の韓国外交官に聞いたことがある。「なぜカトリック信者となったのか」と。彼曰く「妻が信者だ。彼女からカトリック信者になれば都合がいいからあなたも教会に入りなさいといわれた」という。すなわち、出世を目指すのならば、カトリック教会に入れば都合がいいというわけだ。イエスが聞けばビックリするかもしれないが、この世の荒波をうまく泳ぐために教会に入る人は上記の外交官だけではない。結構多い。

当方は韓国カトリック教会を批判する考えはない。人口の1%にも満たない日本のキリスト者も大きな違いはないからだ。キリスト者といっても、熱心で敬虔な信者から名前だけの信者まで多種多様だ。例に挙げて申し訳ないが、日本の麻生太郎副首相もカトリック信者だが、日曜日の礼拝に参加するより、ホテルで酒のグラスを傾ける方が大好きな信者だ。日本のキリスト者はイエスの教え、キリスト教の教理などにあまり関心がない(「日本の信者は教会の教えに無関心」)2014年2月23日参考)。

文大統領は弁明するかもしれない。「一国の為政者として国益を守るために相手国を時には批判し、追及するが、キリスト者としては愛を実践している」という説明だ。すなわち、正教分離だ。この説明で納得できる人は幸いだが、それは詭弁以外の何物でもない。

人間を心と体に分割できないように、政治生活と信仰生活は使い分けることは出来ない、政治の世界で強権を発揮し、相手を苦しめる一方、私生活では慈愛に満ちた言動をする、といったことはできない。政治活動と信仰生活を別々にしなさい、ということは「詐欺師になりなさい」と勧めているようなものだ。

「イエスの教え」を完全に実践することは誰にとっても容易ではないが、「イエスの教え」を完全に否定するような言動は慎むべきだろう。それは神への冒涜だからだ。文大統領が相手を糾弾する前に自身の過ちを正すならば、同大統領の南北融和政策は必ず神の祝福を受けるだろう。さもなければ、南北融和政策は悪用され、韓国を一層カオスに陥れることになるだろう。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2018年12月11日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。