沖縄、県民投票がもたらすもの

岡本 裕明

沖縄が辺野古移設に関する県民投票をめぐる話題で大きく揺れています。県議会は来年2月にその県民投票を行うことを決議していますが、一部市町村で県民投票予算案を否決、実質的にオール沖縄での県民投票にならない可能性が高くなっています。すでに宜野湾市や沖縄市が予算案を否決しており、県民の4割近くが不在になる中で県議会主導の投票をどう評価するのか、年明けの大きな話題となりそうです。

沖縄県サイトより:編集部

この県民投票、そもそも何の意味があるのか、といえば条例に基づく県民の意思の確認にとどまり、その結果が法的な拘束力をもたらす性格のものではありません。つまり、どんな結果が出ても基本は変わらないことになります。もちろん、ボイスとしては意味がありますが、仮に県民の一部しか参加しない県民投票であればその結果の有効性が問われかねず、ボイスの妥当性への疑義も当然つくでしょう。

県民投票なり国民投票とは投票権所有者がある事象に対してYES、NOで答えるというものです。原則的にはそれ以外の選択は棄権する以外にありません。外国ではよく国民投票が行われ、スイスは何かにつけすぐ、国民投票を行い、国民による判断を重視する国として知られます。その中で皆さんのご記憶にあるのが英国のEU離脱を問う国民投票でした。これは国を二分する大きな運動と化し、その結果、離脱を選びました。問題は現政権が離脱に向けた実務において議会で紛糾する中、メイ首相が国民に再確認するプロセスを明白に否定していることであります。

つまり、メイ首相風に言わせれば国民投票は一事象一度限りで考え直すことは許さない、という立場にすら聞こえます。では国民投票の判断はどこまで信頼できるものなのか、これを十分検討したものは少ないと思います。

一般大衆は原則的に世の中の流れに影響を受けやすい傾向があります。例えば家族や会社の仲間が皆、YESである中で「お前はどうするのだ?」と聞かれれば心の中でNOと思っていてもYESにせざるを得ないこともあるでしょう。つまり、判断が場の雰囲気に飲み込まれるリスクがより高いのであります。

辺野古の基地移設予定地:編集部撮影

議会制度というのはこのあいまいで流されやすい個人感情をより抑え込み、きちんと物事を判断できそうな代表者にそれを任せるという意味であります。

今、沖縄で展開していることは県議会や県、メディア含め、とにかく反対のボイスで埋め尽くすという手段にみえます。韓国の朴大統領を引きずりおろしたあの時のデモと同じであります。

一方、外から見ていると沖縄が本来やらねばならない経済政策や社会対策は山ほどあり、この問題にそこまで精力を使い、県民を煽ることにどこまで意味があるのか個人的には理解の度を越えています。琉球新報の20日付社説、「県民投票不参加表明 市民の権利尊重し再考を」に至っては日本の新聞のトーンとは思えない強い論調で県民投票を否定する市町村への批判姿勢を強めています。

つまり過熱化する辺野古移設問題で沖縄そのものの分断化が進んでいる、ともいえるのかもしれません。さらに困ったことには非県民も現地に乗り込みながら活動をする様子もうかがえ、だれが何のために運動しているのか、より過激化するだけのように思えます。

沖縄の歴史については尊重しますし、本土の多くの方もそれは認識しているはずです。しかし、メディアから聞こえてくるボイスは反対一辺倒で心の中で賛成と小さく叫んでいる声はなかなか聞こえてこないのが現状であります。これがバランスの取れた報道体制なのか、あるいはメディアとしての役割なのか、私は首をかしげないわけにはいかないのであります。

では今日はこのぐらいで。


編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2018年12月21日の記事より転載させていただきました。