韓国三・一運動100周年:唯一日本人が胸に刻むべき事件

2019年02月28日 06:01

韓国待望の記念日、三・一運動から100周年のその日までいよいよ秒読みに入った。さぞかし日本人には耳障りな反日の悪口雑言がこれでもかと叫ばれ、そして報じられることだろう。筆者もそれらのほとんどに歯噛みするに違いない。

が、閔妃暗殺事件(乙未事変)だけには、我々日本人は黙して首を垂れねばならぬと筆者は考える。李氏朝鮮第26代皇帝高宗の妃閔妃を駐韓日本公使の三浦梧楼以下が殺害したとされる事件だ。それは日清戦争終結から半年経った1895年10月に起きた。

英国人旅行家が活写する李朝末期

閔妃(明成皇后、Wikipedia:編集部)

事件の様子は英国人旅行家イザベラ・バードと多くの信頼に足るノンフィクションを編んだ角田房子の著書に詳しい。前者は「朝鮮紀行」、後者は「閔妃暗殺」だ。本稿の話もこの才女二人のまるで見て来たような描写を拝借した。もとい、バードは実際に少なくとも3度、高宗夫妻に謁見した。

李氏朝鮮では19世紀頃から幼少の国王即位が続き、勢道(せど)と呼ばれる国王周辺の個人や集団が権力を独占する政治が横行した。勢道の多くは王室と血縁関係か婚姻関係にある外戚がなった。高宗の政権では父の興宣大院君と妃閔妃の閔氏だ。

1864年の高宗(1852-1919)即位も12歳の時だった。妃選びは実父の大院君(1820-1893)が妻の縁戚である閔氏の中から選んだ。幼時期に両親を亡くした閔妃(1852-1895)は外戚の専横を招く気遣いがないと大院君が考えたからだ。そして二人は1866年に結婚した。

その時点では大院君が勢道で閔氏はその予備軍に過ぎなかった。が、以下のバードの記述は、閔妃の非凡さ、閔氏が勢道となる李氏朝鮮末期の権力争い、そして日清露に翻弄された後に日本による併合へと向かう李朝の必然を活写する同書の白眉の一つだ。少々長いがそのまま引用する(本稿の太字は筆者)。

国王は背が低くて顔色が悪く、確かに凡人で、薄い口髭と皇帝髭を蓄えていた。落ち着きがなく、両手を頻りにひきつらせていたが、その居ずまいや物腰に威厳がないと言うのではない。国王の面立ちは愛想が良く、その生来の人の好さは良く知られているところである。会話の途中、国王が言葉に詰まると王妃がよく助け舟を出していた。

その後三週間で更に三度私は謁見を賜った。どの時も私は王妃の優雅さと魅力的な物腰や配慮のこもった優しさ、卓越した知性と気迫、そして通訳を介していても充分に伝わってくる話術の非凡な才に感服した。その政治的な影響力が並はずれて強いことや、国王に対しても強い影響力を行使していることなどなどは驚くまでもなかった。王妃は敵に囲まれていた。国王の父大院君を主とする敵対者たちは皆、政府要職のほぼ全てに自分の一族を就けてしまった王妃の才覚と権勢に苦々しい思いを募らせている。

王妃は毎日が闘いの日々を送っていた。魅力と深い洞察力と知恵の全てを動員して、権力を得るべく、夫と息子の尊厳と安全を守るべく、大院君を失脚させるべく闘っていた。国王の即位直後に大院君は王妃の実弟宅に時限爆弾を潜ませた美しい箱を送り、王妃の母、弟、甥をはじめ数名の人間を殺害した事実がある。大院君は王妃自身の命を狙っており、二人の間の確執は白熱の一途を辿っていた。

王家内部は分裂し、国王は心優しく温和である分性格が弱く、人の言いなりだった。そしてその傾向は王妃の影響力が強まって以来ますます激しくなっていた。最良の改革案なのに国王の意思が薄弱なために頓挫してしまったものは多い。絶対王政が立憲政治に変われば事態は大いに改善されようが、言うまでもなくそれは外国のイニシャチブの下に行われない限り成功は望むべくもない。

国王の人柄について長々と記したのは、国王が事実上朝鮮政府であるからである。それも単に名目上の首長に止まらない。成文化されているにせよ、いないにせよ、憲法がなく議会も存在しないのである以上、国王の公布した勅令以外に法律はないと言える。国王は統治者として極めて勤勉で各省庁の業務全般について熟知し、膨大な報告と建白を受け、政府の名の下に行われる全ての事柄を気に掛けている。

細部を仔細に考慮することにかけては国王の右に出る者はいないとはよく言われることである。同時に国王は全体的に物事を把握することに長けていない。あれだけ心優しい人であり、あれだけ進歩的な考えに共鳴する人なのであるから、そこに性格的な強さと知性が加わり、愚にもつかない人々の意見に簡単に流されるところがなければ名君に成り得たであろうに、その意志薄弱な性格は致命的である。

“排日”を打ち出して暗殺された閔妃

王妃になって凡そ30年、40代半ばになった才色兼備の閔妃が大院君を押しのけて権力を握り、閔氏が勢道として権勢をふるう様子が伺える。他方、日本は閔妃が「その旗印を“親露・排日”と鮮明に打ち出した」と角田が書くその頃、閔氏に幽閉されていた大院君を担ぎ出してその排除を計画した。

事件の舞台となった景福宮(画像は興礼門、Wikipediaより)

殺害事件そのものは両書に詳しいので省く。が、如何に大院君を利用しようとも、米人侍衛隊教官ダイや露人技師サバチンらに目撃されているので日本の関与は否定し難い。

角田はこう書く。

井上(前公使)の意を体して三浦が実行したものだが、伊藤や陸奥ら日本政府が指示したとは思われない。

おそらく当を得ている。日本政府は各国の非難をかわすため、すぐさま三浦公使、杉浦書記官や浪人岡本柳之助ら48名を日本に召還して逮捕し広島で裁判にかけた。が、朝鮮人3名を絞首刑にしただけで、日本人は全員が証拠不十分で無罪放免された。

角田はその不可思議さの証左の一つとして、三浦の後を継いだ小村寿太郎公使が西園寺公望に宛てた次の電報を挙げている。

今回の事変については官民共にすこぶる関係者多くして、その事実を得ること最も難し。しかれども今日までの取り調べにより、本官の確実と認むるもの左の通り。即ちこの事件の使嗾者は三浦公使にて、大院君と同公使との間を周旋したるは岡本柳之助と察せらる

角田は三浦らが無罪放免となった背景に「春生門事件」があったとも書く。これは角田によれば、親露・親米の一派が国王遷宮と親日の金弘集内閣の打倒を企図した事件だ。取り調べの結果、事件の背後に反親日の外国勢力がいたことが強調され、閔妃暗殺への非難の矛先が鈍ったという。

大津事件との対比を持ち出した城内議員の稚拙

以上が、筆者がこれだけには日本人は黙して首を垂れるべきとする閔妃暗殺事件の顛末だ。実は筆者がこの事件のことを思い出したのには訳がある。それは少し前に自民党の城内実議員が日韓議連を脱会したことに関係がある。

城内議員の日頃の一本筋の通った活動ぶりに期待している者の一人として、議員の日韓議連脱退のニュースを読んで良くやったと思った。が、その談話が拙かった。彼は韓国が法治国家とは言えないことの対比に大津事件を持ち出した。

大津事件とは、訪日中のロシア皇太子ニコライ(後のニコライ2世)が今の滋賀県大津市で警備の警官に切りつけられ負傷した91年の事件だ。政府は外交上の配慮から死刑の圧力を掛けた。が、大審院院(現在の最高裁)はこれに屈せず、一般人に対する罪を適用し無期懲役を判決した。

確かに大津事件の判決は我が国の司法の独立と三権分立の定着に大きな影響を与えた。が、その5年後に起きた閔妃暗殺の裁判は果たして公正だったか。まして被害者は李氏朝鮮国王妃だ。よって韓国の法治を云々する時に日本の裁判例を引くのは慎む方が良い、と筆者は思う。

高橋 克己 在野の近現代史研究家
メーカー在職中は海外展開やM&Aなどを担当。台湾勤務中に日本統治時代の遺骨を納めた慰霊塔や日本人学校の移転問題に関わったのを機にライフワークとして東アジア近現代史を研究している。

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