三・一運動ののち日本統治は安定したのが真実だ

2019年02月28日 14:00

3月1日は、日本統治下の朝鮮における独立運動「三・一運動」の100周年にあたる。韓国では、史実とはかけ離れた反日史観が炸裂(さくれつ)し、事実の捏造まで交えながらキャンペーンが行われることが予想される。

そこで、最近、刊行した『捏造だらけの韓国史』(ワニブックス)では、「三・一運動を機に日本の朝鮮統治は安定し、皇民化へ向かって大きく舵が切られた。100周年を機に、韓国の反日攻勢はさらに加速していくだろうが、日本国民はそういう虚構に毅然(きぜん)として立ち向かう覚悟が必要だ」というようなことを書いておいた。

ソウル・タプコル公園にある三・一運動のレリーフ(Wikipedia:編集部)

また、すでに発売になった月刊『Hanada』では『三・一独立運動は文在寅の捏造』、3月1日に発売される月刊『正論』でも「韓国『三・一独立運動』のウソ」という記事をそれぞれ掲載している。

『正論』の記事は、韓国史の中でのこの事件の位置づけを総論的に論じる中で、彼らの嘘を糾弾している。Hanadaのほうは、そのときの首相である岩手県盛岡出身の原敬と、事件後に総督に原から指名された同県水沢出身の斎藤実(まこと)のふたりが打ち立てた素晴らしい朝鮮統治政策のお陰で、その後、26年にわたり朝鮮統治は微動だにしない安定のもとで行われたかを論じている。

「独立運動の原点」なんてウソ八百であることを明らかにしている。どうせ文在寅が3月1日に大法螺吹くだろうから、その前にきつい一発を見舞っておく。

韓国の憲法では、韓国は三・一運動の後、中国・上海で成立した大韓民国臨時政府の法統を継ぐとしている。特に、文在寅大統領は、それを強調する立場をとっている。

三・一運動のきっかけは、かつて大韓皇帝だった高宗(ゴジョン)の死である。高宗の次男である李垠(イ・ウン)が、梨本宮方子(まさこ)女王と結婚することになった(長男が最後の皇帝の皇帝だった純宗だったが、病弱で子供がなかった)。
高宗は皇室に準じる待遇を与えられた李王家の安泰と自分のDNAの継承を保証するこの結婚を喜んでいたのだが、「高宗が反対しており自殺した」とか「暗殺された」というデマが流れたのがきっかけで大混乱となった。

しかし、「死者7509人」という日本の教科書にまで使われている数字は海外の運動家が根拠がないが噂と称して流したプロパガンダで、南京事件30万人以下のねつ造数字だ。

原敬(左)、斎藤実(Wikipedia:編集部)

また、この騒動の後、原敬首相や斎藤実総督による本格的な皇民化を目指した政策が成功し、それまでは摩擦があった日本による朝鮮統治はまれにみる安定をみせるようになった。その結果、終戦までほとんど混乱なく安定したのである。原は盛岡、斎藤は岩手県水沢(奥州市、仙台藩家老のミニ城下町。小沢一郎の出身地)出身で、「戊辰戦争で反官軍だった自分たちが体制の中心に座るようになった経験を、朝鮮にも適用可能だ」と考えた。

原は日韓併合直後から「将来は朝鮮人に参政権も付与すべきだ」としていた。また、運動の指導者たちの多くも、総督府の融和政策に応えて、創氏改名や日本語教育推進といった皇民化政策の積極的協力者になったのである(むしろ彼らの要望に総督府は応えたのである。三・一独立宣言の起草者は朝鮮語教育の廃止まで要求するようになった)。

そうした意味で、「三・一運動」は独立運動でなく、日本統治安定の出発点として位置づけられるべきものといえる。
また、もう少し詳しく紹介するが、今回は『正論』の発売前でもあるので、このあたりにとどめておく。

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八幡 和郎
評論家、歴史作家、徳島文理大学教授

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